こだまでしょうか、いいえ誰でも

ボランティアバスで行こう!

ボランティアバスで行こう!

昨年『僕はお父さんを訴えます*1で鮮烈なデビューを果たした友井羊の第2長篇だ。前作は発売直後に一読して、非常に感銘を受けた*2のだが、今回は訳あって先月後半はゆっくり落ち着いて小説を読んでいられる状態ではなかった。私事だが、ここ半月ほど「この苦難を乗り越えたら、友井羊の新作が読める!」との望みで耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできた。
さて、この『ボランティアバスで行こう!』は、震災復旧のボランティアバスに乗り合わせた人々を描いた作品だ。まずは作者自身の言葉から。

この作品は、大震災で被害を受けた地域へ支援のために向かう“ボランティアバス”を舞台にした連作短編集です。被災地の状況や支援活動を描写しながら、ボランティア参加者たちが現地で出くわす謎と推理を描いています。

正直、震災をテーマとして選ぶことに葛藤がありました。震災のとき筆者は関東にいて、たいした被害も受けず温かい家で過ごすことができました。住処や大切な人を失った方がたくさんいるなか、テーマとして扱ってはいけないのではと悩んだのです。

しかしボランティアとして何度か現地を訪れてみて、被害を受けていない身だからこそ書ける内容があるのではないか、と思うようになりました。その結果生まれたのが、この『ボランティアバスで行こう!』になります。

しまった! 作者は「連作短編集」と言っている。冒頭で「第2長篇」と書いてしまった……。でも訂正しない。なるほど、連作短篇集といえばいえなくはないが、目次を見ると「第一章 会社員 遠藤の場合」とか「第二章 女子高生 紗月の場合」とか書いてあるではないか。「話」ではなく「章」を使っているのだから、これは長篇に違いない!
……といちおう弁解。
この小説を読んでまず感じたのは、人間の記憶がいかに風化しやすいものか、ということだ。たとえば、次の箇所*3

今どき珍しいブラウン管のテレビから、公共広告機構の作ったコマーシャルが流れてている。柔らかい歌声をバックに、動物をモデルにしたキャラクターが続けて登場する。震災以来、何回観たかわからないほど繰り返し放映されていた。

ここを呼んだとき、「震災以来、何回観たかわからないほど繰り返し放映されていた」はずの、そのコマーシャルのことがすぐには思い出せず、「あれ? 何だったっけ?」と思い、そのコマーシャルの記憶がよみがえると同時に愕然とした。

こんなにインパクトの強いコマーシャルが、あの強迫的なメロディが、いつの間にか記憶の片隅に追いやられていたとは!
もちろん、記憶の風化はいつも悪いことばかりではない。「あいさつの魔法。」のことなど忘れてしまっても全く問題はない。しかし、奇しくも「あいさつの魔法。」が予言した形となった「ポポポポ〜ン」のほうは、今しばらく*4忘れてはならないのではないか。
脱線した。
『ボランティアバスで行こう!』は、できることなら事前の予備知識をすべてシャットアウトして読むほうがいい小説だ。外部の手がかりなしに、小説そのものに向き合って、ただ自分の理性と感性と知識のみで対峙するほうが、絶対に面白く読める。そういうわけで、あまり詳しく紹介するのは憚られる。今こうやって書いている文章そのものが、未読の人に余計な予断を与えるのではないかと心配している。予断の代わりに余談を……と思って「あいさつの魔法。」に言及してみたりしたのだが、この文章すべてを余談で埋め尽くすのも申し訳ない。
作者自身「謎と推理を描いています」と書いているのだから、この小説をジャンル分けすればミステリに含まれることくらいは言ってしまってもいいだろう。では、ミステリとしての評価はどうか。
一箇所、瑕瑾がある。
これは書くべきか書かざるべきか迷ったのだが、あえて避けるのはミステリ読みとして不誠実だろうと思うので書いておくことにする。先ほど引用した箇所に不適切な表現がある。

公共広告によって、国民の公共意識を高めることを目的に活動している民間の団体である。アメリカの「広告協議会(アド・カウンシル、以下『アメリカAC』と表記)」を見本として、1971年(昭和46年)に前身である任意団体の「関西公共広告機構(かんさいこうきょうこうこくきこう)」が発足。公共広告を実施する団体としては日本初のものであった。1974年(昭和49年)、これを引き継ぐ形で「社団法人公共広告機構(こうきょうこうこくきこう)を設立」し、2009年(平成21年)7月には現名称であるACジャパンへ改称。2011年(平成23年)には公益社団法人化された。

公共広告機構」が改称して「ACジャパン」となったのだから、両者は同一団体であるのは間違いない。従って、「あいさつの魔法。」を作ったのは公共広告機構だ、と言っても間違いではない。しかし、このコマーシャルが作られた2010年には既に改称後なのだから、不適切な表現となる。
これは明らかに単純ミスであり小説そのものの評価を左右するような重大な欠陥ではない、といちおうは考えられる*5。しかし、『ボランティアバスで行こう!』はミステリなのだから、ミステリの評価基準で論じればどうか。話は簡単ではない。「ただのポカミス」がミステリにおいては「アンフェア」という致命的なエラーになり得る場合がある*6からだ。もっとも、この「公共広告機構」の件を除けば、『ボランティアバスで行こう!』は、この種のミステリマニア的あら探しに対してほぼパーフェクトな防御力を備えている*7
瑕瑾はあるものの、ミステリとして上出来だ、というのが現段階での評価*8だ。
しかし、この小説で最も感銘を受けたのはミステリ的技巧というよりは、より一般的な小説技巧の面で、もうちょっと詳しく言えば「甘さ」の制御バランスの巧みさだ。
震災という題材を扱っているだけに、どうしても重苦しくなりがちな雰囲気を和らげ、未来への希望へと繋げていくためには「現実べったり」というわけにはいかない。章間に挿入されたコラム風の文章では東日本大震災の現状について述べつつも、本文では具体的な地名をぼかしたり固有名詞の使用を最小限にしたりと、ある意味でメルヘン的な書き方がなされているのは、一つにはこのような事情があったからではないかと勝手に推測しているのだが、このようなメルヘン的筆致は得てして必要以上の「甘さ」を引き込んでしまう*9。厳しい現実に疲れてへとへとになった読者を慰撫するためには、「甘さ」は決して有害なものではないのだが、度が過ぎるとただの現実逃避になってしまう。いや、「ただの現実逃避でいいじゃないか」という意見もあるだろうし、そのような小説を好んで読む読者も多いのは知っている。しかし、「ただの現実逃避」をよしとする立場の人でも、過度な「甘さ」が現実逃避の妨げになることには同意してもらえるのではないだろうか?
『ボランティアバスで行こう!』で特に「甘さ」の制御が絶妙だと思ったのは、「第六章 逃亡者 陣内の場合」から「エピローグ」にかけて、すなわち物語の終盤だった*10が、その他の部分でも要所要所で脇を締めて、「いい話」に流されて甘味過多にならないように配慮されている。とはいえ、「いい話」が好きな読者に嫌悪を催させるような小説ではないので、たとえば『盤上の敵』を元版で読んで打ちのめされたような人でも安心して読めることを請け合ってもいい*11
長々と書いたわりには、あまり内容のない感想文になってしまった。できれば「『ボランティアバスで行こう!』って面白そう」と思ってもらえるような文章が書ければいいな、と思ったのだが、まあ仕方がない。友井羊に着目している目利きは多い*12ので、誰かもっとうまくこの小説の魅力を紹介していることだろう。ともあれ、友井羊は次作が楽しみな作家だ。

おまけ

この文章の小見出しは、ACジャパンのコマーシャルで一躍有名になった金子みすゞの詩の一節。

『ボランティアバスで行こう!』の作中で特に言及されていないが、「あいさつの魔法。」よりは「こだまでしょうか」のほうが、この小説の雰囲気やテーマに近いように感じられる。

*1:既に文庫化されている。asin:4800208114

*2:当時の感想文を読み返してみると、あまり熱気が感じられないが、思ったこと感じたことを素直に書くと具合の悪いことになるので仕方がない。

*3:『ボランティアバスで行こう!』12ページ。

*4:場合によっては半永久的に。

*5:たとえば、東日本大震災後の日本を舞台とした小説『ここは退屈迎えに来て』の作中に「ジャスコ」が出てくるのは時期的におかしいのだが、それをもってこの小説の価値を減じるような批判をするのは失当だろう。

*6:なぜ、そうなり得るのかを短い言葉で説明するのは難しい。関心がある人は、『推理日記』シリーズの、できれば初期の巻を読んでみてほしい。ミスがアンフェアにつながることを示したのは先日亡くなった佐野洋の大きな業績の一つだった。佐野洋のフェアプレイ理論はかなり先鋭的なもので、実際に読者が感じる「アンフェア感」とは乖離しているのではないかと思われるが、しかし、今のところ佐野洋以上の説得力をもってミステリにおけるフェアプレイについて体系的に論じて反駁した人はいないのではないか。

*7:「パーフェクトな防御力」というのは自分では最大級の讃辞だと思うのだが、完全性を重視しない人にはピンとこないかもしれない。少なくとも揶揄やあてこすりの類ではないと解してほしいのだが……。

*8:むろん、初読時に見落としていたミスに気づいたときは減点することになるし、再読して新たに気づいた技巧や工夫があれば加点することになるので、ミステリとしての評価は常に流動的なものにならざるを得ない。

*9:余談だが、似たようなタイトルの『ローカル線で行こう!』もメルヘン的「甘さ」が多分に含まれていた。メルヘンとしてのローカル線復活 - 一本足の蛸参照。

*10:物語のラストに関わることなので、詳しく説明することは控えるが、そこでは東北地方の将来について極めて明るい展望と、日本社会が決して避けて通ることができない将来の災厄がセットで示されている。

*11:まあ、そんな人がここを読むことがあるかどうかは疑問だが。

*12:自分がその一員だとうぬぼれるつもりはない。そもそも『僕はお父さんを訴えます』を読んだのも、信頼できる目利きがTwitterで褒めているのを見かけて興味を抱いたからで、自力で「発掘」したわけではない。