台風だから深緑野分のミステリーでも勉強しよう

台風とうとう吹いた。
いまwebちくま深緑野分「四二〇円の使い道」が掲載されている。前編は7月18日公開、後編は8月1日公開。掲載・既刊案内|深緑野分|noteによれば掲載終了は8月29日とのこと。野分といえば二百十日というイメージがあるが、それまで待っていたら読めなくなってしまうので、台風11号が本州へ上陸した今日読むことにしたのだった。
「四二〇円の使い道」の感想の前に、この作者の過去の作品について少し振り返っておこう。
深緑野分は第7回ミステリーズ!新人賞に佳作入選した「オーブランの少女」で2010年12月デビューした。第2作は2012年6月の「仮面」、これらの作品を含む作品集『オーブランの少女』が刊行されたのは2013年10月のことだった。これが今のところ唯一の単行本であり、長篇はまだない。
作品の発表ペースから寡作な人だという印象を抱いていた*1のだが、どうやらそうではなかったようだ。

「オーブランの少女」を初めて読んだ時、その新人らしからぬ力量と安定感に大いに感心したので、このツイート*2を見かけたときにはびっくりし、優雅な白鳥の水面下の足掻きの喩えを連想したものだ。
ともあれ、今年に入ってからの深緑野分の躍進はめざましく、「四二〇円の使い道」以前に既に3つの作品を発表している。せっかくの台風だから、この機会に簡単に感想を述べておくことにしようと思う。

カントリー・ロード

ミステリーズ!  vol.63

ミステリーズ! vol.63

『オーブランの少女』収録作がすべて何らかの意味で「少女」をキーワードにしていたため、当然、同じ路線だろうと余談を抱いて読むと壮絶な設定に背負い投げを食らわされる爽快(?)な怪作。
舞台はアメリカのロードサイド、ハイウェイを走る車とヒッチハイカーの少年の出会いから始まる物語が次第に不穏な空気に包まれてゆき……な、なんと怒濤の×××××・×××に!
ネット上で『オーブランの少女』に言及した記事を読むと、「少女」に注目したある種の読者のコメントがいくつか目についたのだが、その直後に少女が一人も登場しない「カントリー・ロード」をぶつけてくるとは、相当大胆なことをするものだと思った。しかし、小賢しいマーケティング戦略などといったことを抜きに素直に小説を読んでみると、「カントリー・ロード」に少女は不要だ。ヒッチハイカーの少年を少女に置き換えても成り立つ話ではあるが、そうすると若干ニュアンスが違ってくる。
なお、私見では「カントリー・ロード」はミステリではないが、結末で二人の人物が登場し読者に驚きを与えるところなどはミステリ作家ならではの演出だと思われる……というのは、やや強引か。

アントン先生と明るい目撃者

これは以前、感想文を書いたので繰り返さない。
深緑野分の小説を読むと他人に薦めたくなるのだが、実際にそうしようとすると肝腎のツボに触れることができず七転八倒し、結局伏せ字だらけになってしまう。プロの書評家ならもっとうまく紹介できるのだろうが、素人にはいかんともしがたい。無念。

髪を編む

『オーブランの少女』収録作から「アントン先生と明るい目撃者」までの諸作には、ある共通点がある。それは、現代日本を舞台にしていない、ということだ。「ここではない、どこか」への渇望があるのではないか、などと思っていたのだが、この「髪を編む」では舞台設定には凝らずに現代日本に暮らす普通の姉妹の日常生活を描いている。
にもかかわらず、この小説は濃厚な深緑野分色*3に彩られている。日常を扱っているだけに、かえってその裂け目が強く印象に残るのかもしれない。怖い物語だ。
もっとも、この「怖さ」は「カントリー・ロード」や「アントン先生と明るい目撃者」とは全く異質なもので、表面に現れてはいない。掲載誌の当該号の特集テーマは「与える」人がうまくいくというもので、「髪を編む」がこのテーマに合わせて書かれたものかどうかはわからないが、そういう読み方をすれば全然怖い物語ではない。もしかしたら「姉妹の心のふれあいを描いたちょっといい話」だと思って読む人もいるかもしれない。個人的には、石童丸の父親が幻視した妻妾の髪*4のような恐ろしさが漂ってくる傑作だと思うのだが……。
どちらの読みのほうが一般的なのか、他人に訊いてみたい気もするのだが、残念ながらまだその機会がない。

四二〇円の使い道

さて、3作品についてざっとコメントを済ませたので、いよいよ「四二〇円の使い道」について語ろう。
これは、PDF文書が読める環境なら今なら無料で簡単に読める。なので、「未読の読者のために特に伏せる」などと言わずに、ネタをばらしてしまっても差し支えないと思うのだが、物事には順序がある。まずは「webちくま」の紹介文から。

中学一年生の瑞希は夏休み中。

ある朝、目覚めると机の上に覚えのない飲み物とお金が……。

期待の若手作家によるちょっと非日常系〈日常の謎〉をお届けします。

これも「髪を編む」と同じく、現代日本が舞台となっている。ただ、大きく違うのは、「髪を編む」にはミステリ要素がほとんどない*5のに対して、「四二〇円の使い道」のほうは明確な謎を提示し、手がかりを与え、推理によって解決へと至るというスタイルをとっているということだ。ジャンルとしては「日常の謎」に属するが、実をいえば「日常の謎」は謎を明示しないものが多い*6。冒頭に不可解な謎を出そうとしても、日常生活の場ではどうしても謎が小粒なものになってしまい、読者を引っ張る強烈なサスペンスが期待できないからかもしれない。
「四二〇円の使い道」で提示されるのは、中学生の女の子に母親が遺した百円玉4枚と十円玉2つの意味という謎で、それが謎である理由は母親の言葉をちゃんと聞いていなかったからだとされる。従って、あまり魅力的な謎というわけではない。ここに「日常の謎」の難しさがよく表れている。だが、舞台や設定の面白さに頼らない傑作「髪を編む」を物した深緑野分のこと、謎の面白さに寄りかかった安直なミステリを書くはずもない。さて、どう攻めてくるのか……。
……と、ここから先は有料になります。作品の内容に大きく踏み込むので、「四二〇円の使い道」を未読の方はまず先にそちらを読んでください。
この小説を最後まで読んでまず感心したのは、主人公の瑞希の同級生、夕夏に探偵役を割り振り、彼女が電話先で推理し真相を言い当てるという形式をとっていることだ。いわゆる「安楽椅子探偵」ものの一種で、同様に探偵役が電話で推理を披露する作例には鮎川哲也の『朱の絶筆』がある*7が、「四二〇円の使い道」では瑞希と夕夏が電話で話している間ずっと電話が塞がっているため母親からの電話が繋がらないという状況になっているのが面白い。つまり、電話という一つの小道具に二つの意味を与えているわけだ。それ自体は漫然と小説を読む人に対して特に感銘を与えるわけではないが、小道具の使い方のうまさの一例として興味深い。
また、安楽椅子探偵ものとして書かれているということは、基本的には読者に与えられているのと同じ情報しか探偵役が持ち得ないわけで、この小説には「読者への挑戦状」は挿入されてはいないものの、純然たるパズラーとして読者と知的ゲームを行っているのだということが明らかにされている。となると、「冒頭の謎」のインパクトなど正直どうでもいい。誠実な読者であるなら、ひたすら伏線を読み込み、推理して、タイトルにも掲げられている四二〇円の使い道を明らかにする必要がある。
そのような構えでこの小説を読んでいくと、前編で鏤められた手がかりが後編できっちりと手堅くまとめられて、無理なく納得できる解決へと至っていることがわかる。もちろん、前提から全く余詰めなしに唯一無二の結論が導出できるというほどの厳密さはない。しかし、現代日本の市井の人々の日常生活のなかでは、これが最も説得的な解決であることに疑いはないだろう。
ところで、これは長年の持論なのだが、謎解きの興味を中心に構成されたミステリの楽しみの半分は読後のアラ探しにある。ミスや欠陥が少ないに越したことはないのだが、全く完全無欠だと逆に面白くない。読者がアラ探ししようという気を誘発するミステリこそが面白いミステリなのだ。かなり歪んだミステリ観だが、以下それを前提として*8気になった点をいくつか書いておく。
まず、作中の年代について。先ほど、この小説は現代日本を舞台にしていると書いたが、正確に何年のことかまでは明らかにされていない。携帯電話への言及があるので、さほど昔のことではないのは確かだが、自動販売機で売られている飲料の標準的な価格がポイントとなっているのだから、もう少し年代を絞り込む手がかりがあったほうがよかったのではないか。今年4月に消費税等*9増税により飲料の自販機の標準価格に揺らぎが生じているので、なおさらそう感じた。
次に、なぜ瑞希の母親がウーロン茶とりんごジュースを買ったのかということについて。作中でウーロン茶は150円、りんごジュースは120円ということになっているので、りんごジュースのほうが30円安い。ならりんごジュースを2本買うほうが30円安くついたはずだ。たかが30円と侮るなかれ。娘にICカードを持たせず、必要経費についてはいちいち申告させたりレシートを持ち帰らせたりする人物、そして祖母の危篤という緊急事態で慌てているときでも冷静に子供のバス運賃支払いのトラブルを回避しようと考える冷静さがあり、かつ急いでいるのにお釣りの770円をそのまま遺すのではなく必要額420円きっかり置いてくるような金勘定に細かい人物が、30円の違いをどうでもいいことと考えるだろうか? りんごジュースを1本買ったら売り切れになり、ほかに同じ値段で買うものがなかったとか、ペットボトルを使って後で工作をしようとしていたとか、なんとでも理由はつけられるのだが、あまり重大で切実な理由を設定すると「釣り銭が必要だったから不要不急の飲料を買った」という推理を損ねてしまうのが悩ましい。
最後に、幽霊になって現れた曾祖母について。コチコチのパズラー原理主義者ならミステリに余計な夾雑物を交えるのは美しくないと感じるかもしれない。だが個人的な印象を述べるなら、実は全然気にならなかった。むしろ、謎解きはシンプルでありながら小説全体には過剰性を持たせる工夫として積極的に評価したい。もしかすると、単純に前編を問題篇、後編を解決篇とすると後編が前編より短くなりバランスが悪くなる*10、という事情があったのかもしれない。ただ、そのような外的な要因以外に、『オーブランの少女』収録作にはあまり顕著には見られなかった、超自然的なものへの接近が今年に入ってからの深緑野分の諸作にうかがわれるということは指摘しておきたい。
深緑野分の作風はなかなか一言二言では言い表しにくい。「少女」というキーワードで把握できたかと思えば、少女が全然登場しない作品を書いて読者の思い込みからするりと抜け出してみせる。「四二〇円の使い道」には少女が登場するが、「オーブランの少女」などとは異なり、性別には大きな意味はなく、これをもって「少女を描いたミステリ」と評する人はいないだろう*11。同様に「超自然」というキーワードもこの先ずっと通用するという保証はない。
ただ、「少女」とか「超自然」とか、そういった単純なキーワードとは別に、新作を読むたびに「ああ、これこそ深緑野分だ」と思わせる何かがあって、それが楽しみでずっと読み続けているのだが、そろそろそれが何かを明らかにしたいとも思っているところだ。長篇か、あるいはシリーズものを読めば、もうちょっと具体的に語ることができそうなのだが……。
……というようなことをだらだら書いているうちに台風は本州を通過して日本海を北上しているそうだ。駄文はこれにて終了。
過ぎ行く台風は深みどり色。

*1:『オーブランの少女』を読む - 一本足の蛸は「寡作家・深緑野分」という前提で感想を述べたものだ。

*2:なお、「もう今更書けないとかないな」は、ここだけ読むと自信のほどを示しているようにも取れるが、前後の文脈から察するに、「もう今更書けないなどとは言ってはいられない」という決意表明ではないかと思われる。

*3:というのがどういう色なのかを説明するのは難しい。深緑……かなぁ。

*4:知らない人は石童丸 - Wikipediaを参照してください。

*5:ただし、伏線の張り方などにミステリっぽさが見受けられる。

*6:たとえば戸板康二グリーン車の子供」、北村薫「空飛ぶ馬」など。

*7:ほかにも多数あると思うが、すぐに思いついたのはこれだけだった。ごめん。

*8:つまり、この小説がつまらないと言いたいのではなく、これだけ重箱の隅をほじくりたくなるほど面白いのだと言いたいわけです。

*9:消費税及び地方消費税の総称。

*10:どうでもいいが、「前編」「後編」は「編」を用いているのに「問題篇」「解決篇」は「篇」を用いたのは、別に漢字の使い分けをしたかったからではない。本当はどちらも「篇」で統一したかったのだが、「前編」「後編」の表記を「前篇」「後篇」と変更するのも悪いかと思ってそのままにした。さらにどうでもいいことだが、この文章の見出しで普段は使わない「ミステリー」を用いたのも『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』の表記法に合わせたからだ。

*11:いや、もしかしたらいるかも?