どんな大家も最初は素人

亜愛一郎の狼狽 (創元推理文庫)

亜愛一郎の狼狽 (創元推理文庫)

今朝、こんな感想文を読んだ。

ちょっと辛辣なコメントになりそうなので、ファンの方には非常に申し訳ないですが、
印象としては、「キンドル出現の弊害とでも言うべき、素人作家の作品を間違って買ってしまった」という感じです。
けっこう前に書かれた作品で、シリーズものなので、素人ってことではないようですが、
どなたかのレビューで、作者は本職の作家ではない、とか書かれていたのをもっと重視すべきだったかなと。

【略】

とにかく読みづらい!
情景描写や登場人物が全く頭に入ってこない。
なんか、ギクシャクした絵本を読まされているような気になりました。
だんだんキャラが立ってきて面白くなるかも、とがんばりましたが、2話目の出だしくらいで挫折中です。

はて? 『亜愛一郎の狼狽』って、そんなに読みづらい小説だったっけ?
中学生の頃、図書委員の特権で学校の図書室に角川書店版の亜愛一郎シリーズを購入して読みふけり、あまりの面白さに「これは手許においておくべきだ」と思い、角川文庫版で3冊とも揃えたことを思い出す。お小遣いが少ない子供だったので、いったん読んだ本を再読のために買うなどという贅沢なことをしたのは例外中の例外だった。
大人になって、本を買う金は自由になったが、その代わりに本の置き場に困るようになった。なので創元推理文庫版は買っていなかったのだが、今朝読んだ感想文が気になり、先ほど書店に寄って本を買ってきた。本当は、件の感想文の筆者と同じくキンドル版を買うべきだったのだろうが、キンドルは持っていないし、まだ買う気にならない。まあ、作者没後の版だから、創元推理文庫版と大きく違っていることはないだろう。
で、早速本を開くことにした……わけではなく、倉庫*1の本の山を引っかき回した。角川文庫版は本の山に埋もれて発掘に手間取ることが予想されたので諦めて、向かったのは雑誌「幻影城」の棚。幸い、本棚に並べてあったのですぐに見つかった。
なぜ、「幻影城」を探したのかといえば、泡坂妻夫のデビュー作にして『亜愛一郎の狼狽』の巻頭を飾る「DL2号機事件」が第1回幻影城新人賞小説部門の佳作に入選したときの選考委員のコメントを読むためだった。確か中井英夫都筑道夫がかなり酷評していたはず。
で、ほこりまみれの「幻影城」1976年3月号を開いてみた。
選考委員は二上洋一、権田萬治、都筑道夫中井英夫中島河太郎横溝正史の6人。このうち二上洋一は選外の作品のみに言及しているが、他の5人は多かれ少なかれ「DL2号機事件」についてコメントしている。しかし、いちいち引用するのは煩雑なので、都筑道夫中井英夫の評のみ紹介しよう。
まず都筑道夫から。入選作となった村岡圭三の「乾谷」への不満を綴った文章の中で、「DL2号機事件」について次のように述べている。

探偵小説の専門誌から、登場する新人としては、むしろ「DL2号機事件」の泡坂妻夫氏のようなひとこそ、ふさわしい。中井さんは、この作者の発想法を、高く評価しておられた。私もそれには同感だけれども、出来あがりのバランスのとれていない点、文章技術の点では、「乾谷」よりだいぶ落ちる。

次に中井英夫の評を見てみよう。

さて最後に「DL2号機事件」だが、難をいえばこれほど欠点だらけの小説もない。ペンネームも感心しないし、登場人物が最初から宮前空港の羽田刑事というのも余計な混乱を招くだけだし、”ああ””だぶだぶ””端麗”という呼び方もしっくりしていず、”ひょろりとした青白い男”が緋熊五郎で”ふよふよした白い男”が柴でとなると、作者の語感そのものに問題がある気がしてくる。

この後いくつか欠点を指摘した後に、この作品の魅力について賛辞を送っているのだが、その部分は割愛する。興味のある方はどうにかして「幻影城」を入手して読んでください。もしかしたら中井英夫の本にこの選評が収録されているかも?
さて、冒頭で紹介した感想文の筆者はどうも泡坂妻夫のことをほとんど知らずに『亜愛一郎の狼狽』を読み始めたようだ。ある程度ミステリに通じた現代の読者なら、このような感想は書けなかっただろう。だが、今から40年近く前にこの作品に触れた選考委員たちは、泡坂妻夫のことをほとんど知らずに純粋に作品に立ち向かい、ある意味では似ていなくもないコメントを遺している。これはなかなか興味深い。
巨匠泡坂妻夫も最初は素人だった。その後、傑作を数多く物し、ミステリ愛好家から愛されることになったが、「DL2号機事件」だけを予備知識なしに素直に読めば、件の感想文はさほど偏向しているわけではないと思った次第。
ちなみに、中井英夫が指摘している「作者の語感」の問題について、後に泡坂妻夫本人が次のように述懐している。

登場人物の名前を付けるときでもそうだ。ない頭で考え過ぎるものだから、ローカルな空港に出入りする刑事に羽田刑事、ひょろりとした男に緋熊などと妙に凝りすぎ、叱られたこともある。

これは確か『トリック交響曲』に収録された文章の一節だったのではないかと思って探したところ、本は見つかったが記憶にある文章は見つからない。仕方がないので引用を諦めて、「幻影城」をぱらぱらとめくっているときに発見した。1978年10月号、『湖底のまつり』最終回と同じ号に掲載された「次は『驚愕』です」という文章の一節。亜愛一郎シリーズ第2期*2のタイトルを『亜愛一郎の驚愕』とすることとしたいきさつが語られている。『亜愛一郎の驚愕』は作品集のタイトルとしては採用されなかったが、この文章の中で別案とし言及されている『亜愛一郎の逃亡』は後に、シリーズ最終作のタイトルとして、また、第3作品集のタイトルとしても用いられている。短文ではあるが、興味のある方はどうにかして(以下略)。
ところで、「DL2号機事件」の初出時の文章と創元推理文庫に収録されたものには細かなところで異同がある。たとえば、宮前市を襲った地震は「幻影城」では「マグニチュード8の地震」だったのが、創元推理文庫では「震度7地震」になっている。全篇比較してみるといろいろな発見がありそうだが、面倒になって文庫で2ページくらいのところでやめた。興味のある人はぜひぜひ新旧対照表をつくってもらいたい。
……と、とりとめのないことを適当に書き飛ばしたら結構な長さになったので、今日はこれでおしまい。では、ゆっくり『亜愛一郎の狼狽』を読むことにします。

*1:書庫ではありません。

*2:なお、第1期のタイトルは『亜です、よろしく』だった。「G線上の鼬」から「砂蛾家の消失」までの6篇で、それ以前は特にシリーズタイトルはついていない。