年の初めに

昨年はどうやら1月1日に日記を書かなかったようだ。何か事情があったのか、それとも単に気が向かなかっただけなのかは、今となってはもう思い出すことができない。
では一昨年はどうだったかといえば、こんな文章を書いている。

今さら言うまでもないが、一年の始まりとか終わりとかいう区切りは人間が勝手に決めたもので、客観的に実在するようなものではない。また、人間社会の中でも暦法によっても一年の区切りは異なるし、同じ暦法を採用していても、国や地域によって異なることがある。

そうすると、一年が始まった瞬間に「あけましておめでとう」と言うのは、実は新年の訪れを言祝いでいるというよりも、自分が属する地域社会が採用している暦法や標準時へのコミットを改めて表明するという意味合いのほうが強いのかもしれない。

それはともかく、昨年「あけましておめでとう」と言ってから、今年「あけましておめでとう」と言うまでの間におよそ一年の月日が流れているのは間違いない。それは暦法や標準時に関係ない歴然とした事実だ。そして、一年の時間の経過は余命が一年短くなった証でもある。

2年前にもうゴールに到着していたという感じがする。もはや付け加えることは何もない。
ただ、件の文章の後の方で、バッハま「クリスマスオラトリオ」に含まれる「受難コラール」に言及しているのだが、それについて少し補足しておくと、キリストの誕生を祝う音楽にその死を暗示する要素を含めるのはバッハに限ったことではない。2年前は知らなかったのだが、その後、グラウプナーのクリスマス用のカンタータのCDを入手して聴いてみると、やはり「受難コラール」の旋律が入っていた。もしかすると当時のドイツプロテスタント音楽ではさほど異例のことではなかったのかもしれない。
さて、その前年、2012年の1月1日には今年の読書の目標 - 一本足の蛸という記事を書いていた。今年も目標を立てたいところだが、あまり冊数にこだわっても仕方がない。かといって冊数以外に目標数値をあげるのは難しい。
昨年は総計126冊の本を読んだが、マンガが大半を占めている。今年はもう少し小説にシフトすることにしたい。だいたい50冊程度。無理かなぁ。
もう一つ目標を立てておこう。これまでに1冊も読んだことがない小説家の本を10冊以上読むというものだ。とりあえず、新年初読みはこれにしようと思っている。

「なぜ今、獅子文六?」
「今ここに本があるからだ!」

12月に読んだ6冊の本

侠飯 (文春文庫)

侠飯 (文春文庫)

廃墟少女 (KCx)

廃墟少女 (KCx)

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

裏窓クロニクル

裏窓クロニクル

今月は先月以上の激務のためあまり本を読むことができなかった。しかし、先月末に

国内ものの小説では、今月読めなかった『裏窓クロニクル』と『スープ屋しずくの謎解き朝ごはん』はなんとか来月中には読んでおきたいところ。友桐夏も友井羊も好きな作家なのに、積んだまま年を越すのは悲しすぎる。

と書いたが、最も悲しい結末は回避することができた。めでたしめでたし。

至福の読書

裏窓クロニクル

裏窓クロニクル

待ちに待っていたはずの友桐夏の新作なのに、刊行後2ヶ月放置していた。もちろん、ただ積んでいたわけではない。何度も本を開いてみては、「一気に読み切るのは無理でも1話ずつなら……」という誘惑に駆られた。だが、その都度、「いや、これは細切れに読んでいい本ではない。機会を待とう」と思い直した。そして、今日、一年最後の日にようやくゆっくり『裏窓クロニクル』に取りかかる機会を得た。
午前8時に読み始めて4時間、読み終えたのは正午のことだった。流し読みすれば半分の時間で読むことができたかもしれない。だが、そうはせずに、ゆっくりと味わいながら、ときどき疑問が生じるたびに既に読んだ箇所を振り返って確認しながら、そして細かな描写や会話の端々からさまざまな空想を膨らませながら、贅沢な4時間を過ごした。まことに至福の時間だった。
未読の人に多くを語ることはできない。差し障りのない範囲で、いくつか興味を惹かれた場面を紹介する程度に留めよう。
たとえば、ミステリ愛好家の人には、こんなシーンはどうだろうか。

鍵が揃っていないなら、深入りすべき時機ではない。これまでだって同じ理由で何本かの鍵を保留してきた。
それにもしもこれがもっと壮大なミステリーのほんの一部に過ぎないとしたら、これからの数年でわたしが習得する知識や技術は、真相解明と解決に大いに役立ってくれるはずだ。その時だってきっとわたしは当事者でなくただの傍観者に過ぎないだろうけれど、でもわたしにすべて任せてくれるなら、今度こそ一人の命もとられることなく最後の扉まで開いてみせよう。
壁に背中をあずけて軽く目を閉じ、わたしは理想を夢想する。
それは少し遠い未来。世間的には忘れ去られた過去の事件であったとしても、ひとたび蒐集した嗜好品をマニアが手放すはずはない。
淡い月明かりの下で対峙するのは、時を越えて突きつけられた過去の罪に恐れおおののく犯人と、十分な成長を遂げ詮議に必要な鍵をひとつ残らず手に入れたパーフェクトな状態のわたし。そして静かに耳を傾ける何人かの観客たちだ。
これは頭を使って犯人を絞り込み決め台詞と共に名指しする、知的な遊戯。沈黙という最後の砦に逃げ込んだ犯人を前に、わたしは悠然と目を細めて微笑み、君臨した正義の女神(ジャスティ)のごとく冷静に裁きの開始を宣告する。
――では、始めましょうか。

なんとも心ときめくモノローグではないか。事件を解決すること能わず舞台から退場する名探偵、しかしその瞳に失意の色はなく、最終的には必ず勝利するという自負と透視に輝いている。凡百のミステリに漫然と置かれた「読者への挑戦状」よりもずっと心動かされるのではないか。
もっとも、『裏窓クロニクル』はマニア向けのガチガチのミステリというわけではない。偶然の暗合、言葉への執着、個人の意思を超越した大きな力など、後期クイーンをふと連想する要素はあるのだが、友桐夏エラリー・クイーンの忠実な騎士扱いするのはあまりにも不当というものだろう*1
私見では、友桐夏の過去の作品のうち『春待ちの姫君たち』はミステリと非ミステリの境界線上に位置しているが、他の諸作はミステリ的な着想や雰囲気もみられるものの、ジャンル小説としての「ミステリ」に位置づけられるものではない。いや、そもそも既成のいかなるジャンルにもすんなりと収まらない。だが、ジャンル小説ではない、いわゆる「普通小説」かといえば、そういうわけでもない。強いていえば「友桐夏」という一つのジャンルがそこにはあるのだ、と開き直るしかない。
だが、『裏窓クロニクル』はきわめてミステリ色が強い作品だ。たとえば第五話の「嘘つきと泥棒」を簡単に紹介するなら「ホテルのスタッフが紛失した鍵を巡る“日常の謎”ものの良品」とでも言えるだろう。実際、これは巧みな伏線と数度にわたるどんでん返しが魅力的な、端正な短篇ミステリだと言ってもおかしくはない……252ページ12行目に「生き残り」という不穏な単語が出てくるまでは。
この不穏さ、そして均整のとれたプロットにあえて異物を持ち込んで歪な空間を現出させ空気を2、3度下げてしまう技法、これこそが友桐夏友桐夏たる所以だ。ああ、このお行儀の悪さ、いいなぁ。
おっと、未読の人に差し障りのない範囲で紹介するつもりが、かなり内容に踏み込んでしまったようだ。これ以上は危険だ。引き返すことにしよう。
最後に、個人的に非常に印象に残った台詞をひとつ抜き書きしておく。

「そうね、冬来たりなば春遠からじ――西風の矢とでも名づけようかしら」

「冬来たりなば」というフレーズは星新一ショートショートのタイトル*2にもなっているくらいで、よく知られているものと思うが、出典を即答できる人はどれくらいいるだろうか。自らの無知を晒すことになるが、昨年とある機会に調べ物をするまで、これがパーシー・ビッシュ・シェリーという詩人の「西風の賦」ないし「西風に寄せる歌」の一節だとは知らなかった。友桐夏はもちろん、そのようなことを知ったうえで、さらりと「西風」という語を入れているのだ。これはたまたま気がついたけれど、ほかにも特に深く考えることなく読み過ごした記述が数多くあるのだろう。
友桐夏という作家は謎深く、その作品を読み解くために時間や労力を費やす価値は十分にある。たまたまこの駄文に目をとめて最後まで読んだそこのあなたも、ぜひ挑戦されたい。

*1:「では、『クイーンの騎士』の名に値する作家などいるのかね?」と真顔で問われると大変困る。

*2:正しくは「冬きたりなば」。初刊本と新潮文庫版では『宇宙のあいさつ』に含まれているが、ハヤカワ文庫版では分冊して表題作だった。

11月に読んだ17冊の本

千代に八千代に (アクションコミックス)

千代に八千代に (アクションコミックス)

瑠璃宮夢幻古物店(1) (アクションコミックス(月刊アクション))

瑠璃宮夢幻古物店(1) (アクションコミックス(月刊アクション))

スナーク狩り

スナーク狩り

「水族館」革命 (宝島社新書)

「水族館」革命 (宝島社新書)

妄想少女 (モーニング KC)

妄想少女 (モーニング KC)

妻がナニやら 1 (ヤングチャンピオン烈コミックス)

妻がナニやら 1 (ヤングチャンピオン烈コミックス)

縮小都市の挑戦 (岩波新書)

縮小都市の挑戦 (岩波新書)

今月は猛烈な激務が予想されていたので、ほとんど本は読めないものと覚悟していたが、予想に反してたかだか60時間程度の残業で済んだので、17冊読むことができた。ほとんどマンガだが。
来月は仕事が多少落ち着く見込みだが、ここ数か月の疲労が蓄積しているので、小説はあまり読めないだろうと思う。特に海外ものには手が出せない。
国内ものの小説では、今月読めなかった『裏窓クロニクル』と『スープ屋しずくの謎解き朝ごはん』はなんとか来月中には読んでおきたいところ。友桐夏も友井羊も好きな作家なのに、積んだまま年を越すのは悲しすぎる。

700億円か800億円か? 衆議院総選挙経費の謎

近々、衆議院が解散されて総選挙が行われるらしい。
なんで解散するのか、今ひとつピンとこないので、いろいろ調べ物をしていると、解散の理由よりも今回の総選挙でかかる費用のほうに関心が移っていった。
たとえば、次の記事では、700億円が必要だと見込まれている。

自民党高村正彦副総裁が14日、安倍晋三首相が年内実施の意向を固めた衆院解散・総選挙を「念のため解散」と述べたことが、波紋を広げている。前回衆院選では約700億円の国費が投入されており、今回も同額程度が必要となる見通し。野党は「多額の費用をかけて行う衆院選大義がないことを認めた」と批判。与党からも「不用意な発言だ」との声が漏れた。

一方で、800億円だという説も出ている。

衆院議員を選ぶ「総選挙」にかかる費用は1回で約800億円といわれる。国民1人当たりの負担は約600円。そんな大金をかけて選んだセンセイ方は、サッカーW杯のどさくさに紛れるように今月22日で国会を閉じると、さっさと長い長い夏休みに入ってしまう。費用対効果を考えるといかがなものか、だ。

なお、この記事は半年くらい前のものなので、今とは多少事情が異なるかもしれない。だが、考えてみれば、上の北海道新聞の記事も2年前の総選挙の実績をもとに想定しているのだから、100億円も食い違いが出るのはおかしいのではないか。
いったい本当はいくら必要なのだろうか?
さらに調べてみると、解散総選挙? 衆院選ではどのくらい税金が使われるのかという記事が見つかった。これは良記事だ。「選挙にかかる費用」にもいろいろあって、どれを含みどれを除くかによって金額が違うのがわかる。

産経ニュースは、衆院選1回実施にかかる費用を約800億円と報じているが、2012年の衆院選では、約650億円の税金が使われている。なかでも最も費用がかかっているのが、選挙の事務にかかる費用だ。この費用は選挙執行経費基準法などに基づき国が負担することとされており、2012年12月に行われた衆議院選挙では、約588億円が使われた。

これを読んだ限りでは産経新聞の「800億円」というのはやや過大なようだ。北海道新聞の「700億円」も怪しいが、予算ベースで書いているならわからなくもない。予算はある程度多めにしておかないと、いざというときにお金が足りなくなって選挙が執行できなくなったら大変だ。700億円ほど積んでおいて精算したら600億円くらい、というのはありそうな話だ。 ……と納得しかけたところで、いちおう念のために選挙執行経費基準法なるものを参照しておこうと思った。これは略称で、正式な題名は国会議員の選挙等の執行経費の基準に関する法律という長ったらしいものだが、この法律名で検索したところ、国会議員の選挙等の執行経費の基準に関する法律の一部を改正する法律の概要(平成25年法律第9号)【PDF】という文書が見つかった。どうやら、前回の総選挙の後に法律がかなり大きく改正されていたようだ。ただ、この資料では経費の総額がどう変わったのかまではわからない。 そこで、さらに調べたところ、国政選挙の経費を大幅削減 | ニュース | 公明党という記事が見つかった。

7月に予定される参院選では、当初の見込み額約514億円から約67億円を削減。また、次期衆院選では前回選挙(昨年12月)の予算額約641億円から約69億円が縮減され、両選挙合わせた削減額は計約136億円に上ります。

平成25年行政レビューシート(総務省)【PDF】によれば、「衆議院議員総選挙に必要な経費」の予算は約696億円なので、上の記事の「約641億円」とは違っているが、たぶん選挙執行経費基準法に基づく経費以外のものを含んだ金額なのだろう。 公明新聞を信じるなら、今回の衆議院総選挙では前回よりも予算ベースで約69億円削減されることになるが、実績ベースではどうなるのかはよくわからない。国の予算が削減されても、地方公共団体が必要とする経費が前回と同程度だとすると、予算の見積もりが厳しくなった分執行率が上昇するだけで、実際にはあまり減らないかもしれない。 というわけで、結局「よくわからない」という答えしか出なかったが、少なくとも確かなのは、産経新聞の「800億円」説はあてにならないということだ。とりあえず今のところはここまで。

困った地方論の例

麗しき山河や田園の息を呑むような大自然や、立派な瓦屋根の伝統的な集落の家並み、そこにしかない郷土の文化などは、県庁所在地級の都市では昭和の時代に終わっている。県庁所在地在住者は大半が多摩ニュータウン劣化コピーのような分譲住宅に住んでいて、下手をすればマンションやアパート住まいだったりする。彼らは県内の他所の地域から出てきた人か、東京から左遷された人だから土地に根差しているわけでもなく、むしろ不満感を抱いている。映るテレビ局が少ない以外に東京と何も変わりはないが、首都圏に比べると圧倒的に不便なのであるから当然だろう。

その点、県庁所在地に満たない地方都市はいまも風景を保っていて、先祖代々暮らす人たちが大切にしている「土地固有性」がある。これまでは吉幾三の歌のような不便の象徴だったが、いまどきは郡部ですらチェーン店が何でもそろっている。セリアもユニクロもツルハもあり、イオンタウンイオンスーパーセンターがあり、町によっては県庁所在地と何も変わらないイオンモールだってある。高望みさえしなければ東京都民とほぼ同じ消費文化があるのだ。

いやはや、これは困った。
まず「麗しき山河や田園の息を呑むような大自然」というのがよくわからない。昭和以前の県庁所在地には「麗しき山河」があったというのだろうか? また田園のどこが大自然なのだろう? この人は原生自然と二次的自然の違いを理解しているのだろうか?
さらによくわからないのが「県庁所在地在住者は大半が多摩ニュータウン劣化コピーのような分譲住宅に住んでいて」という箇所だ。「大半」というからには、少なくとも50パーセントは超えているのだろうが、そんな統計があるのだろうか? また「彼らは県内の他所の地域から出てきた人か、東京から左遷された人だ」と書いているが、これもどのような統計的裏付けがあるのかが不明だ。
たぶんそんなものはないだろう。東京から県庁所在地へ移住した人の統計は探せば見つかるだろうが、東京から左遷された人の数など誰が調べているというのか。
「県庁所在地(級)/県庁所在地に満たない地方都市」という対比は興味深いのだが、県庁所在地に満たない地方都市にあるとされる「土地固有性」なるものの具体例が挙げられていないので、言葉だけが上滑りしている。
さらに言うなら「高望みさえしなければ東京都民とほぼ同じ消費文化」とはどういうことだろう? 東京都民と同様の消費文化を求めると「高望み」になるということなら、「ほぼ同じ」とは言えないだろう。そもそも、セリアやユニクロやツルハは県庁所在地にはないものなのか?
困った世代論の例 - 一本足の蛸でも引用した橋下大阪市長の名言「民族とか国籍を一括りにして評価をするような、そういう発言はやめろ」を捩って「県庁所在地とか地方都市を一括りにして評価をするような、そういう発言はやめろ」と言いたくなった。

追記(2014/11/09)

この文章を書いたあと、Twitter

と呟いたら、いつの間にかボン兄タイムスの中の人にブロックされていた。

困った世代論の例

この一連のツイートを読んで「おやっ?」と首を傾げた。「1970年代末の高インフレ」って何のことだろう?
そこで検索してみると、次のような文章が見つかった。

79年から80年にかけて世界のインフレは再び悪化した。78年には7.7%へ鈍化していたOECD諸国の消費者物価は,79年には9.4%へ,さらに80年1〜3月には11.9%(前年同期比)へ高まった。これを主要国についてみると,日,独の物価が78年にひきつづいて79年も安定を維持したのに対して,米,英,伊の悪化が著しかった。仏,加は79年中は高水準ながら上昇テンポの加速はみられなかった。しかし,80年に入ると,日,独を含めて各国ともじりじりと上昇率を高め,80年4〜6月の消費者物価上昇率(前年同期比)は英が21.5%,伊が20.9%,米が14.4%,仏が13.7%,加が9.6%,日が8.3%,独が5.9%,7大国平均で12.8%となっている(7大国のピークは4〜6月)(第1-2-1表)。

素直に読めば、1979年には日本とドイツを除く主要国のインフレが悪化した、と読める。クルーグマンがどこで何を言ったのかは知らないが、たぶん日本とドイツを除く主要国のインフレについての発言だったのだろう。しかるに、上で引用した1番目のツイートで「日本でも」と書き、2番目のツイートでは「アベノミクス」という語を出しているのだから、そこで言われている「40代以上の新自由主義者」というのが日本人を念頭に置いていることは疑いえない。
困ったことだ。
世代論については、以前こんなことを書いたことがある。

若者論の本は多数出版されているが、実はほとんど読んだことがない。なぜかといえば、あまり興味がないからだ。若者に興味がないというわけではなく、そもそも世代論全般に対して疑問を抱いている。世代論などというのは血液型性格判断みたいなもので、ごく少数の例を無造作に一般化して特定の集団に属する人々にべったりとレッテルを貼り付ける作業だと思うからだ。もちろん、慎重な検討と熟考を重ねたうえで行われた、バイアスを極力排した社会調査の結果を根拠にした世代論であれば、一読の価値はあるだろう。しかし、社会調査にはさまざまな制約があり、統計学的見地からの批判に耐えうる理想的な調査はゼロとは言わないまでも非常に少ない。というわけで、「若者に興味がないわけではない」という程度の関心では、なかなか若者論の本に手を出すことはない。

少し補足しておくと、仮に何らかの統計データにより、世代間で明らかに異なる特徴が見られるとしても、その世代差よりも同一世代内の個人差が大きい場合には、慎重な物言いが必要になると考えている。橋下大阪市長の名言「民族とか国籍を一括りにして評価をするような、そういう発言はやめろ」*1は世代論にも応用できるのではないか、とも。
閑話休題
上で引用した2番目のツイートで「40代以上の新自由主義者」と言ったのち、3番目のツイートでは「左翼」も「リベラル」も「保守」「右翼」も同様だと言っているのだから、つまるところ政治的主義にかかわりなく40代以上の人の経済思想に関する世代論であると考えられる。だが、40代以上と30代以下で支持する経済思想に差があるということを示す統計的根拠は全く与えられていない。その代わりにクルーグマンの言葉を引き合いに出して根拠づけているわけだが、先に見たとおりそこにはごく初歩的な誤り*2が含まれている。第二次世界大戦後の混乱期を除けば、日本で最も高インフレに悩まされたのは1970年代半ばであって、1970年代後半には狂乱物価が落ち着いていたことは特殊な専門知識というわけではない。
まあ、1978年や1979年の3パーセント台のインフレでも昨今の水準からみれば「高インフレ」と言えなくはないので、そのような理解で「高インフレ」という語を用いたのだとすれば日本経済史の誤解に基づく発言ではないことになるのだが、それにしても既に社会人として第二次オイルショックを経験した人と、まだ小学生にもなっていなかった人を「40代以上」と一括りにして評価をするのはよくないと思った次第。

参考

平成22年基準消費者物価指数>長期時系列データ>品目別価格指数>全国>年平均から「持家の帰属家賃を除く総合 前年比(1948年〜最新年)」のデータを次に掲げる。

変化率(%)
1948 82.7
1949 32.0
1950 -6.9
1951 16.4
1952 5.0
1953 6.5
1954 6.5
1955 -1.1
1956 0.3
1957 3.1
1958 -0.4
1959 1.0
1960 3.6
1961 5.3
1962 6.8
1963 7.6
1964 3.9
1965 6.6
1966 5.1
1967 4.0
1968 5.3
1969 5.2
1970 7.7
1971 6.1
1972 4.5
1973 11.7
1974 24.5
1975 11.8
1976 9.3
1977 8.1
1978 3.8
1979 3.6
1980 8.0
1981 4.9
1982 2.7
1983 1.9
1984 2.2
1985 2.1
1986 0.4
1987 -0.2
1988 0.5
1989 2.3
1990 3.1
1991 3.3
1992 1.6
1993 1.1
1994 0.5
1995 -0.3
1996 0.0
1997 1.6
1998 0.7
1999 -0.4
2000 -0.9
2001 -0.9
2002 -1.1
2003 -0.3
2004 0.0
2005 -0.4
2006 0.3
2007 0.1
2008 1.6
2009 -1.5
2010 -0.8
2011 -0.3
2012 0.0
2013 0.5

*1:橋下大阪市長と在特会会長が「罵り合い」10分間の不毛なバトル(全文書き起こし)|弁護士ドットコムニュース参照。

*2:ついでにいえば、マーガレット・サッチャーが英国首相に就任したのは1979年のことなので「1980年代のサッチャーはインフレ退治で出て来た」という表現にも若干の違和感はある。