至福の読書

裏窓クロニクル

裏窓クロニクル

待ちに待っていたはずの友桐夏の新作なのに、刊行後2ヶ月放置していた。もちろん、ただ積んでいたわけではない。何度も本を開いてみては、「一気に読み切るのは無理でも1話ずつなら……」という誘惑に駆られた。だが、その都度、「いや、これは細切れに読んでいい本ではない。機会を待とう」と思い直した。そして、今日、一年最後の日にようやくゆっくり『裏窓クロニクル』に取りかかる機会を得た。
午前8時に読み始めて4時間、読み終えたのは正午のことだった。流し読みすれば半分の時間で読むことができたかもしれない。だが、そうはせずに、ゆっくりと味わいながら、ときどき疑問が生じるたびに既に読んだ箇所を振り返って確認しながら、そして細かな描写や会話の端々からさまざまな空想を膨らませながら、贅沢な4時間を過ごした。まことに至福の時間だった。
未読の人に多くを語ることはできない。差し障りのない範囲で、いくつか興味を惹かれた場面を紹介する程度に留めよう。
たとえば、ミステリ愛好家の人には、こんなシーンはどうだろうか。

鍵が揃っていないなら、深入りすべき時機ではない。これまでだって同じ理由で何本かの鍵を保留してきた。
それにもしもこれがもっと壮大なミステリーのほんの一部に過ぎないとしたら、これからの数年でわたしが習得する知識や技術は、真相解明と解決に大いに役立ってくれるはずだ。その時だってきっとわたしは当事者でなくただの傍観者に過ぎないだろうけれど、でもわたしにすべて任せてくれるなら、今度こそ一人の命もとられることなく最後の扉まで開いてみせよう。
壁に背中をあずけて軽く目を閉じ、わたしは理想を夢想する。
それは少し遠い未来。世間的には忘れ去られた過去の事件であったとしても、ひとたび蒐集した嗜好品をマニアが手放すはずはない。
淡い月明かりの下で対峙するのは、時を越えて突きつけられた過去の罪に恐れおおののく犯人と、十分な成長を遂げ詮議に必要な鍵をひとつ残らず手に入れたパーフェクトな状態のわたし。そして静かに耳を傾ける何人かの観客たちだ。
これは頭を使って犯人を絞り込み決め台詞と共に名指しする、知的な遊戯。沈黙という最後の砦に逃げ込んだ犯人を前に、わたしは悠然と目を細めて微笑み、君臨した正義の女神(ジャスティ)のごとく冷静に裁きの開始を宣告する。
――では、始めましょうか。

なんとも心ときめくモノローグではないか。事件を解決すること能わず舞台から退場する名探偵、しかしその瞳に失意の色はなく、最終的には必ず勝利するという自負と透視に輝いている。凡百のミステリに漫然と置かれた「読者への挑戦状」よりもずっと心動かされるのではないか。
もっとも、『裏窓クロニクル』はマニア向けのガチガチのミステリというわけではない。偶然の暗合、言葉への執着、個人の意思を超越した大きな力など、後期クイーンをふと連想する要素はあるのだが、友桐夏エラリー・クイーンの忠実な騎士扱いするのはあまりにも不当というものだろう*1
私見では、友桐夏の過去の作品のうち『春待ちの姫君たち』はミステリと非ミステリの境界線上に位置しているが、他の諸作はミステリ的な着想や雰囲気もみられるものの、ジャンル小説としての「ミステリ」に位置づけられるものではない。いや、そもそも既成のいかなるジャンルにもすんなりと収まらない。だが、ジャンル小説ではない、いわゆる「普通小説」かといえば、そういうわけでもない。強いていえば「友桐夏」という一つのジャンルがそこにはあるのだ、と開き直るしかない。
だが、『裏窓クロニクル』はきわめてミステリ色が強い作品だ。たとえば第五話の「嘘つきと泥棒」を簡単に紹介するなら「ホテルのスタッフが紛失した鍵を巡る“日常の謎”ものの良品」とでも言えるだろう。実際、これは巧みな伏線と数度にわたるどんでん返しが魅力的な、端正な短篇ミステリだと言ってもおかしくはない……252ページ12行目に「生き残り」という不穏な単語が出てくるまでは。
この不穏さ、そして均整のとれたプロットにあえて異物を持ち込んで歪な空間を現出させ空気を2、3度下げてしまう技法、これこそが友桐夏友桐夏たる所以だ。ああ、このお行儀の悪さ、いいなぁ。
おっと、未読の人に差し障りのない範囲で紹介するつもりが、かなり内容に踏み込んでしまったようだ。これ以上は危険だ。引き返すことにしよう。
最後に、個人的に非常に印象に残った台詞をひとつ抜き書きしておく。

「そうね、冬来たりなば春遠からじ――西風の矢とでも名づけようかしら」

「冬来たりなば」というフレーズは星新一ショートショートのタイトル*2にもなっているくらいで、よく知られているものと思うが、出典を即答できる人はどれくらいいるだろうか。自らの無知を晒すことになるが、昨年とある機会に調べ物をするまで、これがパーシー・ビッシュ・シェリーという詩人の「西風の賦」ないし「西風に寄せる歌」の一節だとは知らなかった。友桐夏はもちろん、そのようなことを知ったうえで、さらりと「西風」という語を入れているのだ。これはたまたま気がついたけれど、ほかにも特に深く考えることなく読み過ごした記述が数多くあるのだろう。
友桐夏という作家は謎深く、その作品を読み解くために時間や労力を費やす価値は十分にある。たまたまこの駄文に目をとめて最後まで読んだそこのあなたも、ぜひ挑戦されたい。

*1:「では、『クイーンの騎士』の名に値する作家などいるのかね?」と真顔で問われると大変困る。

*2:正しくは「冬きたりなば」。初刊本と新潮文庫版では『宇宙のあいさつ』に含まれているが、ハヤカワ文庫版では分冊して表題作だった。