『ボトルネック』の、あまりまともではない感想

ボトルネック

ボトルネック

タイトルについて

奇妙なタイトルだ。素っ気なさそうで案外インパクトが強いような。
犬はどこだ (ミステリ・フロンティア)』も最初にタイトルが予告されたときに首を傾げたものだが、現物を読んでみるとこれ以上ぴったりのタイトルはないと思えてきた。だが『ボトルネック』は読み終えてもなお釈然としない感じが残る。タイトルにこめられた意味は237ページでいちおうは明らかにされる。でも「いや、ちょっと待ってよ。それはボトルネックとはちょっと違うでしょ」と言いたくなるのだ。
瓶の外には広い世界があり、瓶の中にもそれなりのスペースがある。その外と内を繋ぐのがボトルネックで、ここだけがくびれているために、瓶に何かを出し入れするときの妨げとなる。127ページでは、ボトルネックは排除されるべきもの、と特徴づけられている。しかるに237ページでボトルネックに喩えられるものは、それが排除されれば物事が円滑に流れるという類のものではない。それあれが取り替えられてはじめてすべてがうまくいくのだ。これが「ちょっと違うでしょ」と感じた理由だ。
もちろん、それが「ボトルネック」という言葉に全然そぐわないというわけではないので、全く的はずれということはないのだが、何かが隠されている、これだけではないはずだ、という印象を受けた。
では、このタイトルの真の意味は何なのか?
作中で「ボトルネック」という言葉がぴったり当てはまるのは……えっと、この先書いてしまっていいですか? 未読の人にはまずいような気がするんですが。とりあえず、「続きを読む」記法を使っておくことにしましょう。
……イチョウの木だ。66ページの最後の3行で書かれている状況は典型的なボトルネックだ。だが、このイチョウの木が作中で二重の機能*1をもつものだということを考慮に入れても、タイトルが主としてこれを指しているとは考えにくい。どう考えても237ページのそれほどの重みはないだろう、たかがイチョウの木には。
だが、たかがイチョウ、されどイチョウ。この木は『ボトルネック』にとって真のボトルネックである、あるものの雛形として、暗にそれを象徴している。もったいぶることはあるまい。さっさと書いてしまおう。この小説で最大のボトルネックとは、金沢だ。

地方都市金沢

金沢は北陸の小京都と呼ばれる。作中にもそのことに言及した箇所*2がある。歴史的にも文化的にも金沢は京都と深い縁がある。しかし、地理的にみれば金沢と京都は似ても似つかぬ構造をもつ。手許に両都市の市街地図があれば参照してもらいたい。京都の主要な道路は碁盤目上に整然と排列されているが、金沢の道路は曲がりくねっている。この点だけなら、金沢より旭川のほうがずっと京都に似ている。
城下町の街路は防衛上の都合から意図的に狭隘かつ曲折したものとされていることが多い。ただ、第二次世界大戦の空襲で焼け野原となった都市は、戦後復興の際に来たるべきモータリゼーションを見越して街並みを大幅に改変し、直線上で幅の広い道路を建設した。その典型例が名古屋の100メートル道路だ。対して、金沢では戦災をほとんど受けなかったため、道路の新設も拡幅も大々的に行われることはなかった。高度成長期を迎え、さらに都市の郊外化が進む時代にはこれが逆に足かせとなった。今では金沢の旧市街は全国でも有数のボトルネック都市となっている。
多少なりとも都市交通に関心のある者にとっては、金沢という都市の特異性は自明のことであり、『ボトルネック』の舞台が金沢だと知った瞬間に、このタイトルが金沢を指していることに気づいていなければならなかった。我ながら迂闊だった。反省します。
さて、「ボトルネック=金沢」説には次のような反論が寄せられるかもしれない。「米澤穂信が都市交通に特に関心をもっているという話は聞いたことがない。案外、作者自身も金沢がボトルネック都市だと気づいていないのではないか? もしそうだとすると、この説は作者の意図からかけ離れたもので、端的に言って的はずれだ」
ははは、作者の意図なんかどうでもいいそれくらいのことを考えていないわけがないじゃないか。以下、傍証を二つ提示する。
まず第一点。先に「都市交通に関心のある者にとっては」と述べたのは単なる例示であり、金沢に住んでいた経験のある人なら、かの地の交通事情は身をもって体験しているはずだ。この記事によれば、金沢は米澤穂信が大学時代を過ごした土地だそうだから、当然街並みについて熟知しているはずだ。また、もともと金沢生まれ金沢育ちではないので、他の都市と比較した場合の金沢の特徴として強く印象づけられたことだろう。
第二点。米澤穂信の過去の作品の舞台はほとんど架空の都市ばかりだった。もともとライトノベルレーベルから始まった<古典部>シリーズや、ライトノベル読者層を強く意識した<小市民>シリーズはともかく、『犬はどこだ』ですら「八保市」という実在しない都市*3が舞台となっている。いずれも大都会ではなく地方都市が舞台になっているが、作者にとって必要だったのは「地方都市である」という属性だけだったのだ。少なくとも長篇では実在の都市がそのままの名前で舞台になっているのは『ボトルネック』が初めてでり、これまでの諸作とは都市のもつ意味合いが異なっているということは明らかだ。
「この小説の本当の主人公は、金沢という都市そのものです」などと作者が声高に主張してしまっては、読者は興ざめするばかりだ。それでは、そこいらのご当地小説と同じことになってしまう。あくまでも舞台は舞台であり、主人公でもなければ脇役ですらない。だが、作者は金沢が舞台であるということの重みをさりげなく、しかしあからさまに読者に伝えようとしたのではないか。そのための仕掛が『ボトルネック』というタイトルだったのだ。

現実との接点と切点

このような観点をとる限り、どうしても桜庭一樹に言及しないわけにはいかない。同じく地方都市を舞台とした作品を書き続ける作家でありながら、米澤穂信は架空の都市名を用いることによって現実世界からの切断をはかり、桜庭一樹はあえて実名を出しつつ、個性も独自性もない「類型としての地方都市」を描き出す。ただ、今は二人の作家の作風や技法について細かく比較検討する余裕はない。ここでは、桜庭一樹地方都市シリーズ*4が少女にとっての「檻」としての地方都市、閉塞感漂う停滞空間を描き出しているということと、都市の描写のところどころ現実にはあり得ない記述を入れるというギミックを用いているということ、以上二点に読者の注意を喚起しておくに留める。
さて、この二点を補助線*5として『ボトルネック』に立ち戻ろう。
ボトルネック』の金沢もまた「檻」であり、この作品に閉塞感を与える大きな要因*6となっている。「ボトルネック=金沢=檻」という等式を立てるのはさすがに無茶かもしれないが、人の行動に制約を加え、自由を奪い、さらには気を滅入らせて鬱屈とさせる装置としてはほぼ等価だ*7と思われる。
では、『ボトルネック』で描かれた世界はどの程度現実世界と類似していて、どこがどう違っているのだろうか? 桜庭一樹地方都市シリーズでは現地に行ったことがない者でも地図を開くだけで容易にわかるような、あからさまに事実に反する記述が織り込まれているが、米澤穂信はそういったギミックを使っていないように見える。いや、もしかしたら使っているのかもしれないが、気づかなかった。
ボトルネック』は2005年12月上旬の話だが、その月の終わりにたまたま金沢に行き、兼六園金沢21世紀美術館を見てきたのだが、その時の記憶を辿ってみた限りでは作中描写におかしなところはなかった。金沢駅金沢市役所も書かれているとおりの変な建物だった。
ただ、非常に細かいが現実と違っている点を発見した。それは2005年12月当時、北陸本線には金沢駅7時47分発の上り普通列車はなかったということだ。当時の時刻表を見ると、金沢駅7時50分発の列車があり、作中の記述と同じく福井行となっている。この3分の違いに意味があるのかどうかはわからない。単に作者が取材旅行をした際に時計が3分遅れていただけかもしれない。
もう一つ、これは金沢ではないのだが、地理的に現実とは違っている点があった。9ページに芦原温泉東尋坊の最寄駅、と書かれているが、現実には東尋坊の最寄駅は三国港だ。金沢から東尋坊へ行くのにわざわざ福井まで出てえちぜん鉄道に乗り換えることはないので、芦原温泉で降りることに何の不自然もないのだが、少なくとも最寄駅ではない。これも単に言葉が足りなかっただけかもしれない。が、主人公のいた世界は京福電気鉄道越前本線列車衝突事故の後の歴史が現実とは異なっていて、三国芦原線永平寺線と同時に廃線になったのではないかとも考えられる。いや、これはただの思いつきだが。

ラーメン屋の登場

だんだん何を書いているのか自分でもわからなくなった。そろそろ締めくくりたいが出口が見えてこない。もう少し続けることにしよう。
さて、『ボトルネック』には非常に印象深い人物が登場する。その人物の言動よりも、主人公の過剰なほどの嫌悪によって読者は何とも言い難い感慨を味わう。そう、212ページで登場するあの人だ。
こんなキャラクターは米澤作品にはこれまで登場したことがなかった。強いていえば「11人のサト」の第2話「脊髄少女」に似た雰囲気の人物が出てくるが、書きぶりは違っている。にもかかわらず、どこかでこんな人物描写を見かけたような記憶がある。あれは……そう、これだ。
「で?」
いや、それだけ。
あー、ドツボにはまったので頭を冷やして出直してきます。

おまけ

ここでは「総決算」だったのに、ここでは「一次決算」にトーンダウンしている。

追記(2006/09/02)

北陸本線ダイヤの件の補足。手許に今年5月の時刻表があったので開いてみたところ、去年12月に金沢駅7時50分発だった列車が7時47分発になっていた。よく覚えてはいないが確か3月にダイヤ改正があったはずなので、たぶんその時に変更されたのだろう。

追記の追記(2006/09/03)

大間違いに気づいたので、仕切り直しして感想文を書き直しました。タイトルの「ボトルネック」について全く別の解釈を行っていますので、併せてお読み下さい。

*1:ひとつはノゾミの例の一言を引き出すきっかけ。もうひとつはサキの功績(?)にまつわるエピソードの構成要素。

*2:128ページ。

*3:もっとも『犬はどこだ』には「東京」「名古屋」といった実在の都市名も出てくる。

*4:この用語については用意するものは日本地図と東京創元社解説目録です、と桜庭一樹ファンは言ったを参照されたい。なお、これを受けてぎをらむ氏が用意するものは人身御供論と実弾です、とうんちく好きは言ったで「広義の地方都市シリーズ」を提唱している。拙文では都市空間内部のみに着目したのに対して、ぎをらむ氏は都市の外部に視野を広げて登場人物の移動という観点から分析を行っている。ぎをらむ氏の分析手法は『ボトルネック』にも適用できるのではないかと思うのだが、そのうち氏本人が何か書いてくれることを期待して今はスルーする。

*5:「補助線」という語を用いたのは、桜庭一樹地方都市シリーズ米澤穂信に影響を与えたのかどうか、という視点から考察を行っているのではないからだ。そのような視点から論じるのなら作品の内容を分析するより作者にインタビューしたほうが手っ取り早いし、より確実な議論が可能となることだろう。「点」が「線」だというのはおかしな話だが、どうせただの比喩なのであまり気にしないでほしい。

*6:たとえば116ページの室生犀星の詩碑のくだりなど、息が詰まるような圧迫感がある。

*7:愛郷心溢れる金沢市民の皆さんには申し訳ない。これは『ボトルネック』で描かれた金沢についての意見なので御容赦願いたい。