ある『ボトルネック』評について

ボトルネック

ボトルネック

きたろーの日々雑感内の『ボトルネック』の感想文及びきたろーの本格ミステリ雑感内の詳細な感想について、以下私見を述べる。
ボトルネック」という考え方は、受け取りようによっては、悪質な俗流社会ダーヴィニズムにつながりかねない危険性を持ってます。という一文を読んだときには、あっと驚き、感心した。確かに『ボトルネック』内での「ボトルネック*1に籠められた思想を敷衍するとかなり危険だ。『ボトルネック』を2回も読んでそれに気づかなかったのは、我ながら迂闊としか言いようがない。
さて、『ボトルネック』に危険思想の芽を見出したきたろー氏は、より詳細な感想文でその点についてどう論じているのだろうか。問題作ですが、私は嫌いです。と書いているから肯定的な評価はしていないだろうが、「危険思想を孕んでいるからダメな作品だ」というような俗っぽく下らない非難はしていないだろう。『ボトルネック』とがっぷり四つに組んだ優れた批評が読めるものと期待してリンク先へと移動した。
……その期待は裏切られた。
曰く、これは悪魔の囁きである。曰く、しかし自分の本が人間を殺す可能性を持つということを「想像する」力があり、なおかつそれを知りつつこの本を出したのであれば、私は米澤穂信の心性を疑う。そして、挙げ句の果てには人道にもとる小説である。
期待したのはこっちの勝手だから、それが裏切られたことに文句を言うわけではない。文句を言いたいのは、悪魔を引きあいに出したり、作者の心性を疑ってみせたりする、その暴虐な書きっぷりに対してだ。
いや、それよりもっと大きな問題がある。それは、あたかも小説を道徳の教科書か何かと勘違いしたかのように文学作品の価値を通俗的な道徳的価値の側に大きく引き寄せて論じる、その姿勢だ。このような姿勢に対しては、「受け取りようによっては、悪質な言論封殺につながりかねない危険性を持ってます」とコメントしておくとしよう。
もちろんフィクションであっても現実とは全く無縁ではいられないので「文学は既成の価値観を揺るがすのが本旨だから、不道徳で危険なものであればあるほど価値が高い」という極論には与しない。読んだ人がどんどん自殺していくような小説があれば、それはそれで困ったことだし、何らかの規制が必要だと思う。だが、それは作品や作者を道徳的観点から非難することとは同じではない。
最後に――これは主要な論点ではないが――ひとつ言っておきたいことがある。

小説世界の中では、リョウが現実であり、サキは理想だ。そして物語の結論は、理想は現実に勝てない、である。それ以外には読み取れない。
こんな貧困な読みしかできずに『ボトルネック』を非難するとは、なんと「想像する」力の乏しいことだろう!

*1:ちょっと紛らわしい書き方だが、『』で囲ったほうは小説そのものを、「」で囲ったほうは作中でのキーワードを指す。