きたろー氏の「安眠練炭氏の『ボトルネック』拙感想に対する感想に対する反応」に対する反応

ボトルネック

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なんだか、そのまんまの見出しだが、わかりやすいに越したことはない。きたろーの日々雑感 - 安眠練炭氏の『ボトルネック』拙感想に対する感想に対する反応について。相手先のコメント欄に書き込む内容かもしれないが、ちょっと長文になるのでこっちで書いておく。
まず最初に、前回の一本足の蛸 - ある『ボトルネック』評についての末尾の一文について補足説明しておく。
「貧困な読み」というのは、『ボトルネック』についてのきたろー氏の解釈そのものを指した評言ではなくて、『ボトルネック』を読んだ人々の感じ方や考え方についてのきたろー氏の読みが一面的過ぎるという批判だ。きたろー氏の感想文*1における『ボトルネック』及びその作者への非難は、この作品が読者に与えかねない悪影響に基づくものなのだから、現に読者が『ボトルネック』をどう読んでいるかということが大きなポイントになるはずだ。しかるに、きたろー氏は「それ以外には読み取れない」*2というふうに、読みの可能性を限定的に捉えてしまっている。なるほど、きたろー氏は確かにそう読んだのだろう。だが、そうでない読み方をした人も大勢いるのだ。そのことは感想リンクを辿ってみればわかることだが、実際に他人の感想文を読むまでもない。『ボトルネック』は結末をはっきりと書いていないリドルストーリーなのだから、主人公の行く末について複数の相反する解釈が生じうることは、想像力を働かせてみれば容易にわかるはず*3だ。きたろー氏の解釈が可能だというだけでも、『ボトルネック』非難のロジックは成立するが、きたろー氏の解釈が現に読者の大部分に受け入れられている唯一のものではない以上、氏の論調の迫力は大幅に減じざるをえないだろう。
この世にはさまざまな読者がいて、さまざまな立場で、本をさまざまに読み、さまざまな影響を受ける。そのような多様性に十分な配慮を払わずに、本が読者に与えうる一つの影響の可能性だけを取り立てて論じるのは均衡を欠くものにならざるを得ない。そのことを、きたろー氏が米澤穂信に向けた非難の言葉*4を少し捩って投げ返したのが、前回の末尾の一文だ。
次に、きたろーの日々雑感 - 安眠練炭氏の『ボトルネック』拙感想に対する感想に対する反応で述べられているきたろー氏の『ボトルネック』解釈について。反論があれば、よろしくお願いします。とのことだが、残念ながら真正面からこの解釈に反論することはできない。なぜ残念かといえば、個人的にはこれとは全く別の解釈を奉じているからだ。平たくいえば、リョウは自殺せずに生き続ける、と考えている。だが、この解釈はどちらかといえば非主流派であり、きたろー氏を含む主流派の解釈を退けるほどの有力な論拠はない。
とはいえ、全くスルーするのも気がひけるので、きたろー氏の解釈では十分に説明がつかない点をいくつか提示しておくことにしよう。以前述べたことと重複する点も多いが御寛容願いたい。
第一に、リョウが「自分殺し」のために想像した仮想現実がサキのいる世界だとすれば、リョウは非常に想像力豊かな人間だということになる。彼は自らの想像力の欠如によって人々がいかに不幸となったかを思い知らされ、追いつめられるという仕組みになっているが、ここには「想像力豊かな人間が想像した『想像力の欠如』」というエッシャー的捻れがある。これでは、自らを追いつめれば追いつめるほど、自らを救済する道を拓くことになってしまうのではないか。
第二に、この仮想現実世界には、所期の目的には馴染まない異物が含まれている。それは、川守という名の少年だ。彼はただの端役かもしれない。しかし、無視できないほどの存在感をもってリョウの前に立ち現れる。そこには何か深い意味があるのかもしれないし、単なる構成の破綻かもしれないが、いずれにせよ単純な「現実/理想」の二項対立の構図に揺らぎが生じていることは確かだ。
第三に、仮想の世界から現実世界に戻ってきたときにリョウを説得するツユの存在が挙げられよう。仮想現実の世界では「ツユ=サキ」だが、現実世界にはサキは存在しないし、ツユ(と名乗る人物)自体が自分はサキではないと明言している。では、ツユとは一体何者か? リョウの生きる世界では、水子が電話をかけてくるのか? それとも仮想現実から現実に戻ったというのは誤りで、リョウの脳内メルヘンは継続中なのか?
第四に、リョウが現実世界に絶望するならば、彼は生き続けるだろうということ。そのことは最終ページにはっきりと書かれている*5。自殺は彼の失望人生の延長線上にあり、対して絶望はこれまでの彼の人生の惰性を断ち切る刃だろう。よって、もし仮想現実がリョウ自身を絶望に追いつめるためのものだったとすれば、彼は生き続けることから逃れることはできない。
以上の四点は、きたろー氏の単純明快な図式では説明をつけるのが難しい。これをもってきたろー氏に対する反論としないのは、いずれのピースも無理矢理パズルにはめ込むことが不可能とまでは言い切れないからだ。しかし、それでは全体の図柄が合わなくなることだろう。
最後にちょっと余談。『ボトルネック』を初めて読んだときに感じたぎくしゃくとした居心地の悪さは『夏と冬の奏鳴曲』を読んだときのそれに似ていた。『夏と冬の奏鳴曲』もまた解釈に苦しむ難物で、この作品の謎を完全に解決できる人は誰もいないに違いないと思ったほどだった。しかし、世の中には凄い人がいるものだ。ある同人誌に掲載された論考*6を読んで、長年の疑問がみるみる氷解していく*7のを感じた。人間、長生きするといいこともある。できれば、『ボトルネック』の謎が解決されるまで生きていたいものだ。

*1:今は修正が加えられて随分穏やかなものになっているため、これから初めてリンク先を読む人には批判のニュアンスが伝わりにくいと思うが、これはまあ仕方がない。

*2:今は「それ以外の解釈は、私にはできなかった」に変更されている。

*3:もっとも最後の一行が母親からのメールではないという解釈をする人がいるということまでは、さすがに想像だけではわからないかもしれない。サキからのメールだと考える人が相当数いたのには驚いた。仮にきたろー氏がそのような読みの可能性に思い至らなかったとしても、むろんそのことで「読みが貧困」などと批判するつもりはない。

*4:その言葉は今は削除されている。

*5:拙文『ボトルネック』の、やっぱりあまりまともではない感想を参照のこと。

*6:確か筆者は飯城勇三氏だったと記憶しているが、別名義だったと思う。もしかすると別人だったかもしれない。また、その文章のタイトルは忘れてしまった。あやふやな話で申し訳ない。麻耶雄嵩とエラリー・クイーン』でした。コメント欄で読丸氏にご教示いただきました。

*7:ただし、その解決が麻耶雄嵩の意図したものと同じかどうかはわからない。