斜め読み『赤朽葉家の伝説』(2)-薔薇の名前-

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説


出雲地方に伝わる庶民の間食です。もともとは、奥出雲のたたら製鉄の職人たちが高温過酷な作業の合間に、立ったまま口に流し込んでいた労働食といわれています。不昧公の時代の非常食だったと言う説や、上流階級の茶の湯に対抗して庶民が考え出した、趣味と実益を兼ねた茶法だとする説もあります。乾燥した茶の花を入れ煮出した番茶を丸みのある筒茶碗に注ぎ、長めの茶筅で泡立てます。このときの音から、ユーモラスな「ぼてぼて茶」の名がついたといいます。泡立てた茶の中に、おこわ、煮豆、きざんだ高野豆腐や漬物などの具を少しずつ入れれば出来上がり。箸を使わず、茶碗の底をトントンたたいて片寄せた具をお茶と共に流し込みます。一息でポンと口に放り込むように食べるのが通とか。

紅緑村尋訪

赤朽葉家の伝説』の舞台である紅緑村は鳥取県西部の旧伯耆国に位置するということになっている。しかし「紅緑村」という名称の地方自治体は実在しない。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)』の境港市、『少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)』の下関市、『少女七竈と七人の可愛そうな大人』の旭川市、と立て続けに現代日本の実在する地方都市を舞台にした小説*1を発表してきた桜庭一樹が、『赤朽葉家の伝説』ではなぜ架空地名を採用したのか? これは検討に値する問題ではある。だが、この問題を考察するには相当の深読みが必要となることだろう。この文章では、『赤朽葉家の伝説』を深く掘り下げて読むのではなく、斜め向きに穴を掘るような読み方をすることにしているので、この問題には立ち入らず、そのかわりに表面的な事実を列挙しておこう。
紅緑村はもちろん村である。村役場もあれば村道もあり、村立小学校と村立中学校がある。だが、それだけではない。
昨夜述べたように、JR伯備線は作中ではJR紅緑線と名前を変えて登場する。つまり紅緑村は陰陽連絡線の路線名となるほどの重要拠点である。村には大紅緑駅があり、駅前にはアーケード街があり、五階建てのデパートがあり、1980年代には駅前に学習塾があり、アーケード街にはディスコもあった。映画館、立体駐車場、図書館などもある。高校は県立紅緑高校のほかに商業高校があり、警察は紅緑警察のほかに駐在所もあり、郊外には(そう、紅緑村には郊外がある!)大型量販店もある。
時代の流れとともに新しくあらわれるもの、消えていくものもある。だが、1953年から2012年までの約60年間、紅緑村は紅緑村であり続け、紅緑町にもならなければ紅緑市にもなっていない。
その意味で、紅緑村は単に現実にない村だというばかりではなく、ありそうにない村でもある。けれども、「ありそうにない」と「ありえない」は異なる。
実際、昭和の大合併と平成の大合併を乗り越えた孤高の村が鳥取県西部には現に存在する。鳥取県西伯郡日吉津村である。もっとも、日吉津村が紅緑村のモデルだということではない。日吉津村には鉄道が走っておらず、駅もなければ駅前アーケード街もない。村立小学校はあるが、村立中学校はない。村の子供たちは中学生になると隣の米子市に所在する米子市日吉津村組合立箕蚊屋中学校に通う。村の西端、米子市との境界を流れる日野川*2が、日吉津村と紅緑村を結ぶほぼ唯一の接点である。
紅緑村の主要なモデルは米子市。ただし赤朽葉家が建つだんだんは日野川上流の伯耆町南部町、あるはさらに中国山脈に分け入った江府町日野町日南町あたりか。いずれにせよ、米子駅から歩いてだんだんをのぼって行ける距離ではない。だんだん広場なら駅前すぐだが。また、赤朽葉家と並ぶ黒菱家がある錦港はもしかすると境港市かもしれないが、これまた歩いて行き来できる距離ではない。
GOSICK』シリーズのソヴュール王国のことを、アルプス山脈の麓にまで版図をひろげたモナコ公国だと言ってよいなら、紅緑村は、中国山脈の麓の町村を合併して拡大した米子市*3である。すると、万葉を生んだ「辺境の人」は日本版「灰色狼」ということになるだろうか。
さて、このありそうもない架空の村には、架空の植物「鉄砲薔薇」と架空の食物(飲料?)「ぶくぷく茶」がある。これらの植物・食物について、斜め読みを展開してみよう。

鉄砲薔薇

(以下、『赤朽葉家の伝説』の内容に触れます。未読の方はご注意下さい)
鉄砲薔薇はみたび、赤い花を咲かせる。
一度目は万葉がまだ赤朽葉万葉となる前の、ただの万葉だったときのこと。


 明けかけた空に、うす桃色に山が染まっていた。頂きにはもう雪が積もっている。人の気配もない。声もしない。その人たちはいまも山に、在るのか、ないのか。わからない。立ち上がろうとすると万葉の膝に、季節はずれの鉄砲薔薇が一輪、載せられているのに気づいた。*4
二度目は万葉が赤朽葉家の千里眼奥様となったのち、紅緑村の最後の神話の時代が終わる間際のこと。

 ゆっくりと目を開けると、薄紫色の朝日に照らされたその渓谷には、朝露に濡れる、何十、何百という四角い木の箱が散らばっていたという。谷間には季節はずれの鉄砲薔薇が咲き誇り、そのそこここに、箱はあった。打ちつけられた釘は女の手では開けられなかったが、ひとつだけ釘がゆるんで開く箱があった。女二人で力を合わせて開けてみると、そこには古い絣の着物を着た、美しい女が死蝋化して詰めこまれていた。閉じた瞳は睫毛が長く、首には荒縄が巻かれたままで、腿と脛を折られて正方形の箱にびっちりと収まっていた。寛永五年、と箱の内側に墨で黒々と書かれていた。*5
そして三度目は、万葉が死の床にあったときのこと。

「わしは、鉄砲薔薇が見たい。瞳子、裏庭の鉄砲薔薇を摘んできておくれよ」
 わたしはあわてて立ち上がった。廊下を抜け、裸足で庭に飛び降りた。火のように燃える真っ赤な裏庭を駆けて、鉄砲薔薇の藪をみつけてひきちぎり、両手に山と抱えて祖母のもとに帰った。祖母は死ぬのだ、わかった。いまではこの大屋敷そのものであるかのような、この祖母が。ふっと、覚悟ができた。しかし動揺し続けていたのであろう。薔薇を抱えて部屋に飛びこんだとたん、みどりの足につまづいて転んだ。みどりは起きなかった。布団の上に広がる、祖母の長い銀髪の周りに、薔薇の束が散って、ふわふわと取り囲んだ。銀の扇に、赤い薔薇であった。
鉄砲薔薇は万葉が死に向かい合ったときに現れる花であり、いわば万葉の薔薇(みどりのことは忘れよう!)である。赤朽葉万葉は、エミリー・グリアソンと同じく不在の薔薇を捧げられる資格をもつ*6
それにしても、「鉄砲薔薇」とは……。言うまでもなく、この名称は「鉄砲百合」の捩りであり、「百合」と「薔薇」が植物名とは別の意味で対になっていることにちなんでいる。何とも融通無碍な命名法である。

ぶくぷく茶

ぶくぷく茶については作中でまことしやかな説明がなされている。


 このぶくぷく茶とは、山陰地方に伝わるおやつである。甘く炊いた五色豆を茶碗に入れて、あとからお茶を注いで、よく混ぜてぶくぷくと泡立てる。楊枝で豆をつまみながら、お茶を飲むのである。
名称はおそらく沖縄の「ぶくぶく茶」に由来するが、もの自体は山陰地方で食されている「ぼてぼて茶」をもとにしたものだろう。もしかすると、富山の「ばたばた茶」もヒントになっているかもしれない。
紅緑村では、家庭でのくつろぎや客人へのもてなしにぶくぷく茶をいれるほか、ぶくぷく茶屋もあり、喫茶店のメニューにもぶくぷく茶が入っている。ジャズ喫茶にまでぶくぷく茶があるのだから驚きだ。ぶくぷく茶の生活への浸透の度合がしのばれる。
ところで、ぶくぷく茶屋は単にぶくぷく茶を提供するだけの店ではないことは、次の記述からわかる。

 遠い昔、ぶくぷく茶屋で出会って、一杯のお茶をご馳走してくれたときの夫のことを、目を閉じて孤独を産みながら万葉はなつかしく思い出したという。酒を飲むでもなく、女を買うでもなく、女学生のようにお茶を飲みながら、小難しい洋書をただのんびりと読んでいた曜司。長い髪と、長すぎて影法師のようだった腕。メニューを読み上げた、細い声。そして幻の中でぽぅんと飛んだその首。*7
つまり、ぶくぷく茶屋とは、酒を飲んだり女を買ったりする場所でもあるということだ。他方で、二十歳の万葉とみどりが平然と出入りできる場所であったのだから、ぶくぷく茶屋は紅緑村の社会においてなかなか興味深い役割を担っていることになる。
この、ぶくぷく茶屋に関して、ちょっと面白いエピソードが語られている。

 ぶくぷく茶屋だった。店先で万葉と、山から迷い出てきたちいさな狸の親子が、三人並んで暗い空を見上げていた。と、店の主人が出てきて狸たちを蹴飛ばし、雨の中に追いやった。それから、洗いざらしの髪をたらして、化粧けもない万葉のほうを振り返り、客じゃないなら出て行けと言った。よけいな小遣いもなしに買い物にきた万葉には茶代もなく、しかたなく狸の後を追うように雨の中を走り出そうとした。*8
このあと、万葉は曜司に呼び止められ、お茶をご馳走してもらうことになるのだが、それは別の話。この場面にはひとつの謎が含まれている。なぜ、ぶくぷく茶屋の前に狸があらわれたのか? または、ぶくぷく茶屋の前にあらわれたのはなぜ狸だったのか? そんな謎だ。
昭和中期の地方都市を巡る自然環境は現在とはかなり異なっているだろうが、それにしても狸が山から街中にまで迷い出てくることはめったになかっただろうし、仮にそのようなことがあったとしても店先で呑気に雨宿りをすることはまずありそうもない。では、この狸の親子は万葉が視た幻だったのか? そうすると、ぶくぷく茶屋の主人は幻を蹴飛ばしたことになる。万葉の幻視は店の主人も共有する共同幻視だったのか? それとも、店の主人が狸を蹴飛ばしたという出来事もまた幻だったというのか?
どこまでが現実でどこからが幻だったのかは不明にしても、少なくとも狸の登場に意味があることは間違いない。狸そのものは再登場しないが、これより少し後、37ページで黒菱みどりの台詞の中で言及される。ぶくぷく茶屋にあらわれた狸は、そのための伏線だったのだ*9
しかし、それにしても、なぜ狸だったのか? 犬でも猿でも猪でも山羊*10でもレッサーパンダでもよかったのではないか。
その謎を解く鍵は「ぶくぷく茶屋」という名称そのものにある。
そう、つまりこういうことだ。
ぶくぷく茶屋→ぶくぷくちゃや→ぶんぷくちゃや→ぶんぷくちゃがま→文福茶釜
バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!

言葉そのものへ

ほどよく斜め読みをキメたところで、いよいよ『赤朽葉家の伝説』の核心中の核心、登場人物の名前へと読みを進めよう(もちろん斜め向きに)。そこには、ストーリーの表面をなぞるだけの浅読みにも、眼光紙背に徹する深読みにもない、豊穣で荒涼たるせかいがひろがっている……と信じたい。だが、自分でも今ひとつ信じ切れないので、今晩はこれにて打ち止めとして、仕切り直しのうえ明日の夜に再挑戦することとしたい。

*1:いわゆる、「地方都市シリーズ」である。これは、はてなキーワードにもなっているので参照されたい。

*2:日野川は『赤朽葉家の伝説』では碑野川と名前を変えて登場する。

*3:ただし、行政区域のほとんどが徒歩圏にまで縮小されているため、この拡大米子市=紅緑村は現実の地図には表すことができない。

*4:赤朽葉家の伝説』37ページから。なお、以下の註では同書からの引用はページ数のみを示す。

*5:111ページ。

*6:ただし穂積豊寿にホーマー・バロンの役どころを割り当てることには異論もあるだろう。

*7:106ページ。

*8:26ページ。

*9:なお、これは自分で思いついたのではなく、某ミステリ書評家の説である。本来なら名前を挙げて謝意を表すところだが、諸般の事情により名を秘す。

*10:少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)』に、とうてい山羊がいそうもない場所で主人公がその姿を見かけるという、よく似た場面がある。詳しくは山羊の影 −幻視風景としての『少女には向かない職業』−を参照のこと。