斜め読み『赤朽葉家の伝説』(3)-赤い館の秘密-

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説


第五十条  子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
○2  常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。*1

第六十条  戸籍法第五十条第二項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
一  常用漢字表(昭和五十六年内閣告示第一号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
二  別表第二に掲げる漢字
三  片仮名又は平仮名(変体仮名を除く。)*2

赤朽葉万葉と、ただの、万葉

まずは万葉が登場する冒頭の一段落から。


 赤朽葉万葉が空を飛ぶ男を見たのは、十歳になったある夏のことだった。万葉はわたしの祖母である。そのころ祖母はまだ、山陰地方の旧家である赤朽葉家に輿入れする前で、山出しの野蛮な娘であったため、苗字というものがなかった。ただの、万葉、と村では呼ばれていた。*3
最初の一文でいきなり「空飛ぶ男」に出くわし、多くの読者の興味はそちらに向けられる。だが、意地の悪いことに、もっとも読者が知りたい、その「空飛ぶ男」にまつわる出来事が語られるのは、そこから5ページも先のことだ。よって、読者はそわそわしながらページを繰ることになる。その間に、万葉の生い立ちと未来視の能力、舞台となる紅緑村の概略が語られ、そしてこの小説の語りの構造が示される。そして、いよいよ「空飛ぶ男」の顛末が語られる。

 そして十歳になった夏、万葉は、空を飛ぶ男を初めて視た。
ここからめくるめく幻視風景が展開され、読者は翻弄されっぱなしとなる。表面をなぞるだけでも非常に楽しい。また、深読みを心がける人なら、「見た」と「視た」の使い分けにあれこれと思いをめぐらすという楽しみもあるだろう。だが、この文章は「斜め読み」を目指すものなので、このような深読みの誘惑に抵抗しなければならない。穴は直下に掘るのではなく、斜めに、見当違いの明後日の方角に向けて掘るのでなくては。
「空飛ぶ男」には目を背けて、冒頭に立ち戻ろう。すると、ここにちょっとしたくすぐりが仕掛けられていることに気づく。ダブルミーニングというにはたわいもない、しかしタブルミーニングとしか言いようのない、そんな言葉遊びが。
それは、万葉の呼称にかかわる。村人たちは彼女のことを、ただの「万葉」と呼んでいたのか。それとも「ただの、万葉」と呼んでいたのか。二通りの読みが可能となっている。

「あんた、名前はなんていうの?」
「万葉」
「苗字は?」
 万葉自身には苗字はなかったが、引き取ってくれた若夫婦の苗字は多田といったので、それを名乗った。奥様はうなずいた。それから、ぶくぷく茶を飲み終わった万葉を連れてまた坂を上った。黒塗りの車は無事に直ったようだった。
 車に乗るときに奥様はなぜか、
「多田万葉、あんた、大きくなったらうちの嫁にきなさい。いいわねぇ?」
「は……」*4
だんだんの上のお屋敷に住む赤朽葉タツは万葉の名乗りをそのまま受けて「多田万葉」と呼んだが、多田家と昔から親交のある村の人々なら「多田の夫婦に育てられている万葉」という意味をこめて「多田の、万葉」と呼んでいたかもしれない。だとすると、若夫婦の苗字は、ただ「ただの、万葉」のダブルミーニングのために「多田」とされたのだということになる。
なんてベタな命名法だろう!
思わず微笑を誘われる。
さて、万葉が長じて嫁いだ赤朽葉家、この「赤朽葉」という苗字は非常にかわったもので、たぶん実在しないと思われるが、この作品の雰囲気によく合っている。この苗字が何を象徴しているのか、思わず深読みしそうになってしまう。だが、その誘惑に抵抗しなければ。
物語の終盤、第三部に目を向けよう。

 九歳で母と死に別れてからも、わたしはすっかり静まりかえった、寂れつつある旧家の奥深くで、老いたる祖母の手によって育てられた。父、美夫は製造業に移行した赤朽葉製鉄を、株式会社レッドデッドリーフと名を変え、運営を続けていた。細々と航海を続ける、古い、巨大な戦艦。【略】オートメーション化は進み、人的作業は減るばかりで社員数は全盛期の何分の一かであったが、それでも、この紅緑村の若者に貴重な雇用の機会を与え続けていた。*5
かつての残光で辛うじて存続している旧家。完全に滅んではいないが、それよりもなお哀れを誘う姿である。だが、その中に、あからさまに場違いなフレーズが混じっている。
「レッドデッドリーフ」
「そ、そのままやんけ!」と思わず関西弁でツッコミを入れたくなるような、ありそうにない社名。いま引用した箇所に続いて、あとしばらく赤朽葉家の没落のありさまが描かれているのだが、この「レッドデッドリーフ(Red Dead Reaf)」というベタな社名は、それらすべてを喜劇の一齣に転じてしまうほどのインパクトをもって迫ってくる。
考えてみれば、桜庭一樹のベタでインパクトのあるネーミングセンスは今回初めて発揮されたわけではない。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』の川村七竈を見よ! 『荒野の恋』三部作*6の山野内荒野はどうだ! 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)』の海野藻屑を、陸にあがった人魚姫そのまんまの名前を、君は直視できるかっ!
はぁはぁ、ぜぃぜぃ。
冷静になろうじゃないか。
次に、珍妙な命名が繰り返されることで喜劇的効果を高めている例を見ることにしよう。

泪と毛毬と鞄と孤独


 この日、生まれた長男の泪が、わたしの伯父に当たる人である。タツが選んだ名は常用漢字ではなかったため、役所には波太と届けられたが、屋敷ではタツの名付けた通りの字が使われた。*7

 毛毬は万葉が産んだたくさんの子のうちもっとも見た目の美しい、だがもっとも手ごわい子供であった。この毛毬が、万葉の孫娘であるわたしの、母である。常用漢字ではないため村役場には曜司が悩んだ末に万里と届けたが、大屋敷の中ではあくまで毛毬と呼ばれた。このあと生まれる子供がそれぞれ、鞄と孤独である。名付け親はもちろんすべて曾祖母の赤朽葉タツであり、この大奥様の奇妙な名づけには、その夫も、息子も、嫁も誰も逆らえなかったのだ。ただ一人タツの名づけに、命を懸けて逆らう女が出現するのだが、それはもう少し先の話だ。*8

 温泉宿で産気づいた万葉は、今度もしっかりと目をつぶってたいへんな難産をひとりで乗り切り、あわてふためく曜司は生まれた子供を四角い旅行鞄に入れて、妻を連れ、タツの指示を仰ぐために急いで紅緑村に戻った。タツは上機嫌で子供を抱き、鞄と名づけた。大奥様のこの独特の名づけには、それが人の名前にふさわしくなかろうが、常用漢字、人名漢字でなかろうが、本家の誰も逆らえなかった。曜司が熟慮の末、村役場には花盤の字で届け出た。*9

 タツはこの子供に孤独と名づけた。
 その名をつけられる呪縛を思い、万葉はやんわりとタツに問うた。嫁いできて初めて、遠慮がちにではあるがこの姑に意見をしたのだった。【略】
 万葉はそれ以上はなにも言わなかった。自分は腹から孤独を産んだのだ、と恐れながら思ったのだった。この子の名は、曜司が悩んだ末に村役場には二郎と届けた。しかし真っ赤なこの屋敷では、その名で呼ぶ者は誰もいなかった。*10
幼子を旅行鞄に入れて運ぶ、などという結構恐ろしげなことをさらりと書いているのも凄いが、それはさておき、ここにはパターンギャグの典型が明らかに見られる。3回続けて常用漢字にない漢字が名前に用いられ、毎回別の漢字を宛てた類似する音の名前を役所に届け出る。そして4回目には、このパターンを少し崩して、常用漢字には入ってはいるもののいくらなんでもあんまりな名前がつけられることになる。孤独の戸籍名が、悩んだ末のわりには気合いが抜けた平凡なものであることもくすぐりとなっている。
さて、『赤朽葉家の伝説』を既にお読みの方にとっては言わずもがなのことだが、今列挙した引用文のうち、上3つにはあからさまにおかしい記述が含まれてる。万葉の4人の子供たちは1964年から1975年にかけて生まれたのだが、当時はまだ常用漢字が制定されていなかった*11のだ。この点については、次節で若干の考察を加えることにする。

常用漢字と語り/騙り

(以下、『赤朽葉家の伝説』の内容に触れます。未読の方はご注意下さい)
現行の常用漢字が制定されたのは1981年のことで、それ以前には子の名前に用いることができる漢字は当用漢字(と人名用漢字)だった。当用漢字から常用漢字への移行は戦後日本の国字国語政策の転換を示すものではあるが、歴史的意義はともかくとして、当用漢字表常用漢字表を見比べてみれば大きな違いはない。「泪」も「毬」も「鞄」も、当用漢字表常用漢字表の双方に含まれていない。従って、これらの漢字を含む3人の名前をそのまま役所に届け出ても受理されなかった、ということは間違いない。問題は、「当用漢字」と書かれているべき箇所で「常用漢字」と書かれているということ、その一点に尽きる。
この問題をどう捉えるか? もっとも安直な解答は作者のミスというものだろう。時代背景を考えれば「当用漢字」と書くべきだったのに、ついうっかりと「常用漢字」と書いてしまった、という解釈だ。しかし、この解釈は以下の理由により受け入れられない。
現在、子の名前に用いることができる漢字には常用漢字のほかに戸籍法施行規則人名用漢字別表*12がある。人名用漢字は数次の改訂*13を経て、赤朽葉万葉の子供たちが生まれたときよりもかなり字数が増えており、「毬」は1990年から、「鞄」は2004年から人名に使用可能となっている*14。このような事情は現行の人名用漢字別表を見ただけではわからないことだ。にもかかわらず、毛毬や鞄の名前が戸籍名としては受理されないことを明記しているのだから、当然、人名用漢字の変遷を調べていることになる。その際、今は廃止された「当用漢字」のことも把握しているはずで、それだけ現行の「常用漢字」と取り違えるいうミスは考えにくい。
作者のミスではないとすれば、どういうことか。一昨夜、そして昨夜にも指摘したように『赤朽葉家の伝説』の舞台設定は現実世界そのままではなく、いくつかの点で意図的に改変されている。とするなら、この作中世界では常用漢字が1981年以前に制定されていたとか、当用漢字がはなから「常用漢字」と呼ばれていたとか、その種の可能性も考えられないではない。しかし、その解釈もあまり魅力的なものではない。というのは、上述のとおり、当用漢字と常用漢字は、その理念はともかく、実際上はあまり大きな違いはないからだ。現実とは異なる設定を採用するにしても、これではあまりにも瑣末すぎる。
当用漢字が常用漢字に化けた原因が作者にも物語世界にもないとすれば、その責は作中の語り手である赤朽葉瞳子に帰するべきだろう。あまりにも瑣末であるという、上記と同じ理由により、瞳子が故意に嘘をついたという可能性を排除すれば、彼女が当用漢字と常用漢字を間違えた、という結論に達する。瞳子は1989年生まれなので、当用漢字のことを知らなくても無理もない。
「当」と「常」の一字の違いなど、どうだっていいことではあるし、考察の末に得られた結論も、それ自体としては別に面白くもなんともない。しかし、この結論を一般化すればどうか。瞳子の語りには、あやふやな伝聞と知識不足に由来する、事実に反する記述*15が含まれるということである。もちろん、この小説の語りの構図から読者は当然そのことを疑ってかかるべきではあるのだが、この常用漢字の一件によって、その疑いがより強調されることになる。
他方、瞳子自身の知識レベルとは別に、記述の信憑性に疑いを抱かせる要素が2つある。


なにしろ千里眼の女は夢見がちで、漫画家の女は天性の嘘つきである。祖母の万葉と、母の毛毬が語る昔語りは、二人の主観であって、ただそれだけなのである。*16
赤朽葉家の三代の女のうち、万葉と毛毬がこうなのだから、三代目の瞳子が駄目押しをしても何の不思議もない。かくして、壮大な騙りの物語が紡がれたわけである。

好事家のためのノート

そろそろ時間切れにつき、最後は駆け足で。

  • 202ページに黒菱みどりの娘、ゆかりが名前だけ出てくる。「みどり」に「緑」と漢字をあてるとすれば、色名つながりで「ゆかり」は「紫」か。あるいは「緑」と字形の似た「縁」とも考えられる。
  • 桜庭一樹の近年の作品では「こども」という表記が多かったが、『赤朽葉家の伝説』は一貫して「子供」が用いられている。ただし、「かんばせ」「けして」「(語尾の)よぅ」などの表現は健在(?)であり、文体全体が全く違っているわけではない。
  • 桜庭一樹の特徴的な表記法のひとつ「せかい」は徹底されておらず、第二部前半では「世界」になっているところが何箇所かある*17
  • 海外文学からの影響を強く受けている*18わりには、なぜか三人称単数の代名詞「彼」「彼女」の使用頻度が極端に低い。「彼」は3回*19、「彼女」は1回*20しか用いられていない。
  • 70ページには、デビュー作『AD2015隔離都市―ロンリネス・ガーディアン (ファミ通文庫)』の投稿時のタイトル『夜空に、満天の星』を思わせる一文がある。
  • 「北は○○から南は××まで」というフレーズが作中に3回出てくるが、181ページの「北海道/九州」、210ページの「アイルランド南アフリカ共和国」では南北の釣り合いがとれているのに、170ページの「紋別彦島*21」の対だけが非常にアンバランスである。
  • 泪を出産した後、82ページ以降けして笑わなくなった万葉が99ページで笑い声を上げている。
  • 万葉が未来視した死者は、語られている限りにおいては、すべて男性である。

以上、特に意味があるのかないのかはわからないが、印象に残った点を列挙した。

さて、これにて、構想10分、執筆10日*22の「斜め読み『赤朽葉家の伝説』」を終える。三夜にわたってだらだらと繰り広げた斜め読みにおつきあいいただき、どうもありがとうございました。

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*3:赤朽葉家の伝説』5ページから。なお、以下の註では同書からの引用はページ数のみを示す。

*4:22ページから23ページ。

*5:219ページ。

*6:ただし、今のところ『荒野の恋〈第1部〉catch the tail (ファミ通文庫)』『荒野の恋 第二部 bump of love (ファミ通文庫)』しか出ていない。完結が待たれる。

*7:82ページ。

*8:93ページ。

*9:103ページ。

*10:106ページ。

*11:常用漢字 - Wikipediaによれば「常用漢字」には4種類あり、うち3つは1964年以前に指定または考案されたものだが、今ここで話題にしている常用漢字とは直接の関係はない。

*12:「用」抜きの「人名漢字」は人名漢字に関する声明書第13期国語審議会の記録では「人名用漢字」とは別概念を表しているが、一般にはほぼ同義語として用いられているようだ。

*13:人名用漢字別表の変遷を参照。

*14:ただし、「泪」は今でも使えない。

*15:もちろん、ここでいう「事実」とは作中世界における事実のことであり、現実世界におけるそれではない。

*16:214ページ。

*17:第一部でも110ページの「IMAGINE」の訳詞では「世界」となっている。また、オビの表紙側に「だんだんの世界の女たち」と書かれている。

*18:桜庭一樹読書日記」や「赤朽葉家の伝説」書評などを参照のこと。本当は、具体的にどのような作品が『赤朽葉家の伝説』に影響を与えているかを指摘できればいいのだが、そっち方面の素養がないので皆目見当がつかないのが残念だ。

*19:221ページで赤朽葉孤独、223ページで蘇峰有、227ページで多田ユタカを指している。見落としがあったらすみません。

*20:88ページで万葉を指している。

*21:彦島は『少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)』の舞台のモデルだと思われる。ここを参照のこと。

*22:2006/12/31から2007/01/09まで。