『黒百合』のトリックが成立しない理由

黒百合

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警告

この文章は、その性格上『黒百合』未読の人への配慮を全く行っていません。自分自身の経験からいえば、『黒百合』はトリックを知った上で読んでも騙されるという稀有な作品ですが、だからといって「トリックを知った上で読んだほうが面白い」という無茶な主張を行うつもりはありません。
『黒百合』をまだ読んでいない人は、以下の文章をスルーすることを強く推奨します

『黒百合』のトリックは成立しないのでは - Thscの議論の整理とその疑問点

『黒百合』で歴史的事実として示される内容は事実に反する。

【略】

女学院専用列車に女子車掌が乗っていた、というのがトリックのキモである。

しかし女学院専用列車は昭和16年には存在しなかった。

【略】

大東亜戦争が始まった頃に女性は運転士にならなかったはずだ。

その頃運転士になったと言われたら、これは男性と判断するしかないではないか。

【略】

物理トリックやアリバイトリックの類なら探偵役がそうだと言ったものが正解だ。しかし叙述トリックは読者が上手く騙されたと納得して初めて成立する。腑に落ちるものでなければならない。蓋然性が必要だ。「いやそれはおかしいだろう」と反駁できてしまう謎解きでは叙述トリックが成立していない。

一見すると、この議論は非常に明快だが、よく考えるとやや曖昧なところがある。というのは、「『黒百合』のトリックは成立しない」という主張の根拠となるのが、『黒百合』のトリックが歴史的事実に反した事態に依存しているということなのか、『黒百合』のトリックが読者にとって腑に落ちないということなのかが判然としないからだ。もちろん、Thsc氏自身にとってはここに曖昧さはみじんもないことだろう。「『黒百合』は歴史的事実に反している。従って、『黒百合』は読者を納得させることができない」と氏が考えていることは明らかだ。
そこで、次のようなコメントが飛び出すことになる。

いくら騙されたくてミステリ読んでるにしても、確信犯のバカミス以外で論理的にありえない解決編を強弁されたら怒れよ。

ミステリ読みってアホばっかりなの?

ミステリ読みの中にはアホもいればアホでない人もいるだろうが、『黒百合』を読んで怒らなかったからといって、その人がアホだったということにはならない。昭和16年には阪急の神戸女学院専用列車は既に走っていなかったということも、その当時、女性運転士はいなかったはずだということも、極めて特殊な知識であり、一般のミステリ読みのほとんどが知らないはずのことだから。
1952年当時、パッヘルベルのカノンは「クラシックの入口」ではなかったという知識を持っていなくても決してアホではなのと同様に、これらの知識を有しないことはアホであることの証にはならない。
『黒百合』は歴史的事実に反しているということと、『黒百合』は読者を納得させないということとは切り離して考える必要がある。
では、『黒百合』のトリックが成立しないとする根拠は、歴史的事実への違背なのか、読者への説得力の欠如なのか?
前者だと考えると、Thsc氏の議論には大きな穴が空いていることがわかるだろう。神戸女学院専用列車とか女性運転士などといった細かなことを取り沙汰するまでもなく、『黒百合』はあからさまに歴史的事実に反しており、しかも、それはこの小説のトリックに密接に関わっているではないか。
宝急電鉄などという鉄道は日本の歴史上一度も存在したことがないのだ。
なぜ、このような大きなポイントをスルーしてしまったのか? これは脳内で「宝急」を「阪急」に読み替えれば済む、ということなのだろうか? それでは、なぜ「昭和16年」を「昭和11年」や「昭和19年」に読み替えてはいけないのか? この問いは言いがかりのように見えるかもしれないが、これを振り払うには相当な理論的道具立てが必要となるのは間違いない。
一方、後者の論拠はどうか。読者にとって腑に落ちないから、読者を納得させることができないから、『黒百合』のトリックは成立しないのだ、という議論だ。こちらは、実際に『黒百合』を読んで得た実感に根ざしているため、歴史的事実を持ち出す議論に比べれば地に足が着いている。だが、そこは他の一般読者の立つ地平とはかけ離れている。先に述べたとおり、昭和鉄道史の特殊知識を持たない多くのミステリ読者にとって、『黒百合』のトリックは納得できるものであり、腑に落ちるものなのだから。
トリックの成立如何を読者への説得力の有無に基礎づける議論は、相対主義へと通じる。相対主義が一般に忌むべきものだとは言わないが、「このトリックは、私にとっては成立しない」「そのトリックは、あなたにとっては成立しない」などという言い回しは不健全だと思われる。
『黒百合』のトリックは成立しないのでは - Thscを最初に読んだとき、ざっと以上のようなことを考えて、こう書いた。

「まあ、『黒百合』を読むことは一生ないだろう」と思い、躊躇せずに続きを読むをクリックしたのだが、最後まで読んでみて「あれ、このトリック成立する可能性があるんじゃないか?」と思った。トリックの成立/不成立についての考え方が違っているせいだ。でも、本当のところは実際に『黒百合』を読んでみないとわからない。早速、明日にでも書店に行って本を探してみることにしようと思う。

『黒百合』のトリックが成立しない理由

『黒百合』のトリックが成立しないかどうか、実際に読んで確かめてみた結果は、Thsc氏と同じく「成立しない」というものだった。ただし、その根拠は、『黒百合』が歴史的事実に反しているからでもなければ、腑に落ちないからでもない。この小説がフェアではないからだ。
一般に、ミステリのトリックの成立/不成立と、フェア/アンフェアとはレベルの違う問題であって、「フェアだからトリックが成立する」とか「アンフェアだから成立しない」ということにはならない。しかし、作中の犯人が探偵役に対して仕掛けるトリックとは違って、作者がストレートに読者に対して仕掛ける叙述トリックの場合は、フェアプレイの要件を欠いていることをもって「不成立」と表現することが許されるだろう。
では、『黒百合』はどのような点で、フェアプレイの要件を欠いているのか? それは、『黒百合』の世界では、現実には昭和16年ないし17年にはいなかったはずの女性運転士が存在したということになっているのに、そのような重要な歴史的事実の改変を事前に読者に告知していない、という点だ。
『黒百合』で描かれている事柄が歴史的事実に反するということ自体が問題なのではない。歴史的事実に反しているというデータが提示されていないことが問題なのだ。だが、この論点については、反論も考えられるので、もう少し詳しく考察してみることにしよう。

歴史的事実の改変と外挿遮断効果

現実世界では、阪神と争った鉄道会社は阪急であり、「宝急」などという鉄道会社はなかったし、その社長は小林一三であり「小芝一造」などという人物ではなかった。だが、

赤煉瓦の東京駅にくらべると、当時の大阪駅は地味な、みすぼらしい駅だった。【略】付近に大きな建物は数えるほどしかなく、ただひとつ目立っていたのは宝急百貨店の海老茶色の八階建てビルだった。
そのビルの下にある駅から、私たちは宝急電車に乗った。宝急電鉄は浅木さんの勤める会社である。
神戸線の六甲駅で電車を降り、バスでケーブルカーの駅へ向かった。
【略】
山荘をかたどった駅舎で切符を買いながら、このケーブルカーは宝急の競争相手の阪神電鉄が経営しているのだ、とおばさんが言った。昔はロープウェイもあって、そちらは宝急の経営だったが、戦争中に撤去されてしまったのだという。

この箇所を読んで、「宝急電鉄などという鉄道は日本の歴史上一度も存在したことがないから、これは歴史的事実に反する。従って『黒百合』のトリックは成立しない」などと言い出すのは、明らかに不当な言いがかりというものだ。歴史的事実には反しているが、『黒百合』の世界ではそれが事実なのだ*1。Thsc氏はそのような不当な異議申し立ては行っていない。
一方、「宝急」「小芝一造」のような明らかな改変に比べると、昭和16年神戸女学院専用列車は作者の時代考証ミスの疑いが濃厚だ。だが、トリックの成立/不成立という観点からすれば、昭和16年神戸女学院専用列車も「歴史的事実には反しているが、『黒百合』の世界ではそれが事実なのだ」と読むしかない。さもなければ、この小説の地の文には虚偽の記述があるということになってしまう。ここは寛容の原理<principle of charity>を適用すべきところだ。
好意的に解釈するなら、「宝急」の導入により、歴史的事実の作中世界への外挿*2はある程度遮断されうることが暗に示されているので、昭和16年神戸女学院専用列車については額面通り受け入れるべきだ、ということになるだろうか。
では、「宝急」の外挿遮断効果は、昭和16年ないし17年には女性運転士がいなかったという歴史的事実を『黒百合』の作中に持ち込むことをも防ぐことができるのか? 全篇読み終わったあとに解釈するのなら、昭和16年ないし17年には女性運転士がいたということが「歴史的事実には反しているが、『黒百合』の世界ではそれが事実なのだ」と言わざるを得ない。しかし、それは純粋に寛容の原理からの帰結であり、「宝急」の外挿遮断効果により、当然に予期すべき事柄ではないと思われる。平たくいえば、作中の電鉄会社の名称が「宝急」だということをトリック解明の手がかりとみなすわけにはいかないということだ。
いったい、「宝急」の外挿遮断効果はどの程度の射程をもつのか? 無制限の効果をもつとは考えられない。それはすなわち、字面の上にあらわれた事柄以外はすべて白紙のままにするということに等しいから。上では、昭和16年神戸女学院専用列車に対しては「宝急」の外挿遮断効果を肯定するような評価を行ったが、よく考え直してみれば、仮に「宝急」ではなく「阪急」のままだったとしても、作中の地の文で昭和16年神戸女学院専用列車が記述されていれば、寛容の原理に基づき、『黒百合』の世界での事実と解釈せざるを得ない。そうすると、「宝急」の外挿遮断効果があろうがなかろうが大勢に影響はないということになるのではないか。
「宝急」の外挿遮断効果というややこしい考え方を持ち出したせいで、議論が錯綜してしまったが、結局もとの場所に戻ってしまった。

結語

SFミステリでは、現実世界とは別の物理法則を持ち出す場合には、必ず解決の前に改変されたルールを読者に提示しなければならないということになっている。もしその手続きを怠れば、アンフェアの誹りを免れない。その際、当該作品の作者は、現実に反する物理法則を作中に導入した咎を問われるのではなくて、それを事前告知しなかったことについて非難を受ける。
同様に、『黒百合』の昭和16年ないし17年の女性運転士については、それが歴史的事実に反することが罪となるわけではなく、本来事前告知すべき歴史改変に当たるにもかかわらず、おそらくは作者の考証ミスにより、事前告知不要な単純外挿として扱われたことが瑕疵として挙げられる。その結果、Thsc氏にとっては、全く腑に落ちない、納得できないものとなったわけだ。
以上で、『黒百合』のトリックが成立しない理由の話はおしまい。ご静聴ありがとうございました。

*1:余談だが、『黒百合』におけるパッヘルベルのカノンの扱いについても「『黒百合』の世界ではそれが事実なのだ」という解釈は原理的には可能だ。「信頼できない語り手によるテキスト」解釈以上に魅力がないし、トリックとは特に関係のない、単なるエピソードを擁護するためにアド・ホックな解釈を行う必要があるとは思わないが。

*2:ここでいう「外挿」とは、作中に明記されていないデータを現実世界のデータで補完するということを意味する。どんなに現実からかけ離れた舞台設定の作品でも、あるいはきわめて前衛的で現実世界のルールの適用がほとんどないと思われるような作品でも、必ず何らかの外挿は行われるのであり、さもなければそもそもフィクションを読み解くということは一切不可能となるだろう。『黒百合』のように、基本的に現実の歴史に即した作品においては、なおさらだ。