経験を超えた知識について

たとえば「私は血液型性格判断を信じる。だって、私の経験では、だいたい血液型と性格が対応しているのだから」と言う人がいたとしよう。もしこの主張が「私がこれまで経験した範囲内に限っては血液型性格判断は概ね妥当する」というだけのことなら、さほどめくじらを立てることはない。だが、「一般に血液型性格判断は妥当する」と強く主張するのなら、もちろんそれは受け入れられない。経験したことに見られるパターンを未経験のことに当てはめるのは得てして誤謬のもとになる。
そこで禁欲的な人なら、自分が直接経験した事柄以外については一切何も判断しないでおくべきだ、と考えるかもしれない。それはそれで一つの立場だが、あまり現実的ではない。人はしばしばこれまで未経験だった事柄について判断を迫られることがあり、常に判断停止または留保していては何かと差し障りが出ることもある。*1
では、どうすればいいのか?
経験を超えた事柄にもいろいろあって、個別的・歴史的な事柄*2と、一般的・法則的な事柄*3とでは対応の仕方が異なるのは確かだが、大雑把にいえばどちらのケースでも科学に頼ることになる。科学とは、人間の経験を超えた事柄について、何らかの知見を得るために開発された探究ツールであり、今のところ科学以上に確からしい探究ツールを人類は持っていない。
ただし、当然のことだが、科学は万能ではない。その方法論的制約により、どうやっても探究不可能な領域もあるだろうし、探究可能な領域についてもさまざまな制約により実際には探究できないこともある。さらに、探究の結果得られた情報はほとんど常に絶対確実な知識ではない。
……と書いたところで時間切れ。続きは気が向いたら書くことにする。

*1:ただし、血液型性格判断の妥当性については、判断を迫られる状況に陥ることは稀だろう。その種の話題が出たときには、「私は血液型と性格の相関を示す根拠を知らない」とだけ言って、それ以上の判断を避けるのが賢明だ。進んで血液型性格判断を信じるような思慮の浅い人々にお付き合いする必要はない。

*2:邪馬台国はどこにあったのか?」とか「南京大虐殺はあったのかどうか?」というような事柄。

*3:先の血液型性格判断の例はこれに該当する。