閉鎖空間と死者の数

石持浅海、幻のデビュー長篇だ。なぜ幻かというと、4年前に購入した後、積ん読のままになっていて、昨年大掃除をした際にミカン箱の奥底に埋もれてしまったからだ。既に文庫版*1も出ているので、一瞬、買い直そうかと思ったが、そんな弱気なことを言っていては文庫のほうも幻の本になってしまいそうだったので、死力を尽くした結果、一昨日、倉庫を引っかき回してようやく発掘した。
さて、石持浅海の本を読むのもこれで3冊目なので、共通点が見えてきた。『アイルランドの薔薇』も『水の迷宮』も『扉は閉ざされたまま』も、みな広い意味での閉鎖空間を舞台にしている。しかし、吹雪の山荘とか嵐の孤島のような使い古された状況ではなくて、一作ごとに関係者が自由に現場から出たり入ったりできない理由をこしらえている。ちょっと無理っぽい感じがしなくもないのだが、毎回毎回違った状況設定をして関係者を閉じ込める工夫を凝らしているのは見事だ。
ミステリで閉鎖空間を設定するのにはいくつかの理由がある。

  1. 閉鎖空間に警察が立ち入れない状況であれば、科学捜査や人員に頼った裏付け捜査を封じることができるということ。
  2. 関係者が限定されているため推理に必要なデータも限定されるということ。
  3. 閉塞感が生む緊迫感やパニックで物語にサスペンスを与えることができるということ。

石持浅海の場合には、主に1と2の理由で閉鎖空間を設定しているように思われる。1については詳しく説明する必要はないだろうが、2はもしかしたら補足しておいたほうがいいかもしれない。わかっている人には退屈だろうが、おさらいのつもりで耳を傾けてほしい。
多少論理学を囓ったことがある人なら、前提Aから結論Bが演繹的に推理できるなら、Aと任意のCの連言からもBが演繹的に推理できることを知っているだろう。だが、ミステリで展開される推理はいかに厳密なものに見えても純粋に演繹的であることはまずない。そして非演繹的推理においては、今述べた法則は成立しない。要するに与えられたデータからもっとも蓋然性の高い結論を導くことに成功したとしても、そこに別のデータが付け加わったときに結論のもっともらしさが損なわれる可能性がある。
この特性を生かして、データを小出しにして推理の構築と崩壊のダイナミズムで読者を魅せるタイプのミステリもあるので、一概にこれがいけないというわけではない。石持浅海も部分的にはこの手法を取り入れている。しかし、3作を通読した限りでは、なるべくデータを限定することで推理にノイズが入る余地を少なくしようと努めているようだ。
おさらい終了。
さて、閉鎖空間で発生した事件を扱うことで、常に推理に重きを置いたストーリー展開が可能になるというわけではない。場合によってはかえって推理が難しくなることもある。それは連続殺人の場合だ。逃げ場のない状況で一人また一人と人が殺されていけば、多くの人は恐慌状態に陥ってしまう。中に一人か二人冷静な人がいて推理を続行することはあり得ても、その場の全員がディスカッションに参加するような雰囲気になることは考えにくい。だから、閉鎖空間の連続殺人ものはどちらかといえば、上記3の興味を主眼にしていることが多い。
極論すれば、閉鎖空間で謎解きを冷静に行うためには、殺人が起こらないか、または殺人が起こったという事実が伏せられていることが望ましい。そう、『扉は閉ざされたまま』の状況設定が一つの理想となるのだ。
(以下、『アイルランドの薔薇』の内容に触れます。)
デビュー長篇である『アイルランドの薔薇』では、閉鎖空間で2人の人が死ぬ。2人目は事故死に見えるので、連続殺人が関係者に与える恐慌は回避されているといえるかもしれない。だが、あからさまな殺人事件の後なのだから、いくら事故死だろうともう1人死んだら、みな浮き足立ってしまうだろう。それなのに、1人を除いて全員が静かに落ち着いていて謎解きのために知恵を絞っているというのは、どうも不自然だ。第2の事件はなしで済ませられるなら省いてしまったほうがよかったのではないか。
デビュー当時の石持浅海にとっては、1件の殺人だけで長篇ミステリをもたせるのが難しかったのかもしれない。そこで『アイルランドの薔薇』では2人の死者を必要としたが、その後作家として成長していくうちに、中盤のダレ場を凌ぐために屍体を増やすことなく長篇を書ききる伎倆を身につけていったのだろう。そして、『扉は閉ざされたまま』の境地へと到達したのだ。
これはもちろん根拠のない憶測に過ぎない。未読の長篇を3冊も残しているのだから作家論を試みるにはまだ早い。思いつきのメモ書き程度のものと思ってください。