「ハルヒ以後」とライトノベルの「発見」

 手垢のついた話題にもかかわらず最近「ハルヒ以後」ついて、思いをめぐらすことが多くなった。たぶん名前が田口トモロヲに似てる某シナリオライターの作品に触れてるからだろう。

 もっとも後発作品の内容に「ハルヒ」がどう影響を与えているか――らきすたハルヒネタが満ちてるとか――にはあまり興味がなくて、むしろ関心があるのは「ハルヒ以後」のユーザーの振る舞いの変化だ。これはアニメ系サイト周辺でライトノベルに関心が高まりつつ、それを受けてライトノベル系サイトでも「ライトノベル入門」をうたうエントリがしばしば見られるようになった。(こうしてライトノベルは「発見」された。)で、この変化は……と、時間切れ。

ライトノベルの「発見」*1がいつだったのかということについては異論もあるだろうが、『ライトノベル完全読本』や『このライトノベルがすごい!』などのムック本が出始めた2004年のことだといちおう考えておくことにしよう。小説版『涼宮ハルヒの憂鬱』が出版されたのは2003年のことだから、いちおう「ハルヒ以後」の出来事ということになる。
しかし、一部のライトノベル愛好家を除く一般オタク層に「ハルヒ」が認知されたのはアニメが放映された2006年以降のことだろう。その後のネットユーザー*2の動向にはたぶん何か大きな変化が起こっている*3ように思われるし、その変化の前後を指す言葉として「ハルヒ以前/ハルヒ以後」という表現を用いるのに一定の妥当性があるとも思うのだが、その場合、ライトノベルの「発見」は、「ハルヒ以前」の出来事だということになるのではないだろうか。
あるいは、「ハルヒ以前/ハルヒ以後」の分け目は、「ハルヒ」が『このライトノベルがすごい!』のランキングで一位になった2004年*4だといえるのかもしれない。そうすると、ライトノベルの「発見」はいわば「ハルヒ元年」の出来事であるとも言えるだろう。
ハルヒ以前/ハルヒ以後」のどこにとるのかすらはっきりしていないということは、まだ「ハルヒ以後」の歴史を語るには機が十分に熟していないせいなのかもしれない。だが、今書いたことと矛盾するようだが、まさに今こそ「ハルヒ以後」について語るべき時だ、という気もする。で、「ハルヒ以後」を語る切り口は……と、時間切れ。

追記(2007/06/06)

この話題のもとになったサイトで、「ハルヒ以後」とライトノベルについてという記事が公開されたので、参考のためリンクしておく。(非ライトノベル愛好家による)ライトノベルの「発見」というより、(ライトノベルファンによる)「ライトノベルの『発見』の発見」*5のほうが主題のようだ。

*1:引用もとの筆者に確かめたわけではないが、ここでの「発見」は、コロンブスアメリカ大陸「発見」と同じニュアンスで用いられていることは間違いない。

*2:原文では単に「ユーザー」だが、例示されているのがアニメ系サイトやライトノベル系サイトなので、言葉を補って「ネットユーザー」とした。もしかすると、より広く「オタクコンテンツユーザー」としたほうがいいかもしれない。

*3:もっとも、この変化について明確に論じた例をまだ見たことはない。手垢がついているどころか、まだほとんど手つかずの話題ではないだろうか。

*4:2004年は吉田直の没年でもある。これを機に「ハルヒ」はスニーカー文庫の一枚看板として、資本の論理が渦巻く激流に翻弄されていくことになる。

*5:括弧の使い方はいい加減なので、あまり深く考えないでいただきたい。

*6:学校を出よう!』は電撃大賞受賞作ではないので、文中の「ダブル受賞」は「同時刊行」に読み替えるべきだろうとは思う。