神か悪魔か中村九郎か

神様の悪魔か少年 (Style‐F)

神様の悪魔か少年 (Style‐F)

今回の見出しは某有名ミステリの初刊本のオビのキャッチフレーズを捩ったもの。誰の何という本なのかわからない人は近所のお年寄りに尋ねてみるといい。十中八九正しい答えは返ってこないと思うが、世代間コミュニケーションのきっかけにはなるだろう。
で、本題。
最近、続けて長めの長篇を読んでいるが、これはその中でも特に長い小説だった。本文の大部分が二段組だ。ざっと字数を数えてみたところ……あれ、900枚を少し越す程度だ。『赤石沢教室の実験』とたいしてかわらない。てっきり1200枚くらいあると思っていたのだけれど。
ともあれ、この感覚的には大長篇であるところの『神様の悪魔か少年』を昨日の新幹線の中で読んだのだが、途中まったくだれることなく一気に読み通した。具体的にいえば、東京駅18時13分発のぞみ147号広島行きが東京を出てすぐに駅弁を食べ始め、新横浜付近で駅弁を食べ終わってすぐに本を開き、黙々と読み続けているうちに三河安城で前方の岐阜羽島付近の集中豪雨に伴い通過線で停車し、その間も黙々と読み続け、そうこうするうちに後発ののぞみ51号が隣に停車し、やはり黙々と読み続け、車内放送では時間雨量90ミリとか100ミリとか言っているのに三河安城では全然降っていないなぁと思いつつ読み続け、のぞみ147号とのぞみ51号のそれぞれ6号車前寄り出入口に橋がかけられて、おお『新幹線大爆破』みたいだ、と思いつつ読み続け、でも確か『新幹線大爆破』では走行中の新幹線どうしに橋をかけていたから全然違うなと思い直しつつ読み続け、せっかくだから一度駅に降り立ってみようと思って一旦読むのを中断して駅の自動販売機でコーラを買って車内に戻り、読書を再開するうちに運転も再開し、結局新大阪には約2時間半遅れの23時20分頃に到着し、乗り継ぐ予定だった列車は既にはるか昔に発車してしまっていて家に帰れないのでやむなく臨時休憩用列車に乗ってグリーン車に陣取り、さらに読み進めてどんどん読んで、結局今日の午前1時少し前に読み終わったのだが、ここまで具体的に書く必要はなかった。ごめん。
読後の感想を簡単に言い表すならば、今年読んだ小説のうちでベスト級の傑作だ
ただし、この評価を参考にして『神様の悪魔か少年』をこれから読もうとする人は次の3つの点に留意していただきたい。

  1. 『神様の悪魔か少年』は青春小説の中にミステリ的な趣向を織り込んでおり、その意外性から過剰評価になっている可能性がある。もしこの小説が正面切ってミステリとして書かれていたなら、もしかすると今年読んだ小説のうちでワースト級の愚作だと評価することになってしまったかもしれない。ミステリかどうかで評価が変わってしまうのはあまり好ましくないダブルスタンダードだが、長年身に染みついたこの悪癖はなかなか矯正できないので、そのかわりに警告しておく次第。
  2. よく知られたことだが、中村九郎の文体はライトノベル系の作家のものとしては極めて特殊である。それが魅力でもあるのだが、受けつけない人には全く読めないものでああるかもしれない。また、ある種の海外文学を読み慣れた人にとっては、逆に類似点が目につくかもしれない。あまりその種の文学に馴染んでいないので、実際のところどうなのかはよくわからないのだけれど。
  3. そもそも、あなたが今読んでいる感想文が本当のことを素直に書いているという保証は全くない。「本当です、何も包み隠さず、本心をそのまま書いています」といくら誓ったところで、それが担保になるわけではないのは既におわかりのことでしょう。

さて、『神様の悪魔か少年』のオビには「青春ノワール」と書かれている。これは、ジャンル分けが難しいこの小説の特徴をよく言い表しているように思われる。ここにあえて付け加えるとすれば「青春土木建設ポリティカルノワール」とでもなるだろうか。
作者の経歴をよく知らないので、作中の随所で言及されている土木建設に関する知識が生活環境に由来するものか、それともこの小説のためにリサーチしてものかは不明だが、いずれにせよ建設業界とそれに関わる政治や行政のシステムの雰囲気がよく出ていて、それに感心した。
もちろん、この小説に描かれている事柄はすべて現実そのままというわけではない。たとえば、ある電柱の移設に関する事情を説明したくだりでは、警察と電力会社の関係のみに筆が費やされていて、道路法に基づく占用許可について全く言及されていない。また、作中では地方建設局と地方整備局の両方が存在することになっているが、それは現実に反する。とはいえ、これらの点が青春土木建設ポリティカルノワールとしての『神様の悪魔か少年』の価値をいささかも減じるものではないことは明らかだ。
「悪童」「神様」「嫌な感じの少女」、そして人々を結びつけるキーワード「摂政」。「薩陸」が「殺戮」の語呂合わせだとすれば「摂政」とは「殺生」だろう。あるいは「折衝」か。一つの言葉のイメージが他の言葉と結びつき、さらに新しいイメージを生み出し、まるでチェスタトンの『木曜の男』あるいは久生十蘭の『魔都』のような世界を現出させる。しかし、『木曜の男』と『魔都』が全然別の小説であるのと同様に、『神様の悪魔と少年』もこれらの作品とは全く別物であり、なんら共通点をもつものではない。したがって、わざわざ『木曜の男』や『魔都』を引き合いに出しても仕方がなかったのだ。ああ、いったい何を書いているのでしょう?
訳がわからなくなったたので、これにて感想文は打ち切り。あとは野となれ山となれ。