ひどくやる気のない読書感想文

マーベラス・ツインズ (1)謎の宝の地図 (GAMECITY文庫)

マーベラス・ツインズ (1)謎の宝の地図 (GAMECITY文庫)

前回の記事の最後で「『マーベラス・ツインズ』の感想はまた今度」と書いたが、何がなんでも感想文を書いてやろうという気はなかった。
そもそも、ネットで感想文を発表するというのはどういうことだろう?
しばらく前に、ネット上での書評のあり方についてちょっとした議論があった。書評と読書感想文では事情が異なる点もあるだろうが、どちらも本を読んで、その本についての何らかのコメントを文章にまとめるという点では同じだ。まあ、「読まずに書く書評」というのもないわけではないが、そんなのは例外中の例外だから無視するとしよう。
で、読んだ本についてのコメントを文章にまとめて発表するという点では似たりよったりの書評とか読書感想文とかいう種類の記事はいったいどういうものだろうか、とつらつら考えてみるに、要するに誰かに読ませるための記事だということになる。その「誰か」は人によっても場合によっても違うだろうが、概ね、次の4パターンだろう。

  1. その本の作者または作者サイドの人々
  2. その本の読者
  3. その本をまだ読んでいない人
  4. 自分自身

まず1から考えてみよう。
作者に感想を伝えたいなら、作者に直接メッセージが伝わるような方法がいちばんだ。作者の住所や連絡先を知っている場合はあまりないだろうが、最近では作家が運営するウェブサイトやウェブログも結構多いし、中にはメールアドレスを公開していたり、感想用メールフォームを設置しているサイトもある。そういえば、誰とは言わないが、去年、某小説を書いた人物のウェブサイトでメールフォームを見つけて、たまたまその小説を読んだばかりだったので、感想を書いて送ったことがある。率直な意見を書くと凹んでしまうかもしれないと配慮して、苦労して本心を真綿でくるんで無難な文章に仕立てたつもりだったが、どうやら受け手側は真綿で首を絞められたように感じたらしく、その後しばらくその人物の日記の調子が変だった。でもまあ、これは仕方がない。
閑話休題
作者がウェブサイトを開設していない場合でも、出版社を通じてファンレターを送ることは可能だ。ちゃんと本人に届くかどうかはわからないが、少なくともネット上の自分のサイトに感想文をアップして作者がたまたま検索エンジンエゴサーチして辿り着くのを待つ、などという迂遠な手段に比べれば、ずっと確実性は高い。そう考えると、作者に読ませることだけを意図してネットに感想文をアップするというのは不合理ではないか。むしろ、不特定多数の人々に閲覧可能な状態に置かれた感想文であることを作者にアピールするというほうが、実際の状況に近いのではないだろうか。
少し前の議論を見ていてそんなことをぼんやり考えていたのだけれど、それはそれとして、今話題にしている『マーベラス・ツインズ』の場合はこれは当てはまらないように思う。作者の古龍は英語には堪能だったそうだが、日本語に通じていたという話は聞かないし、仮に日本語をよく読む人だったとしても、今ネットに感想文を発表したとして古龍がそれを読む可能性は限りなくゼロに近い。いや、可能性じゃなくて蓋然性か。まあ、どっちでもいい。
対象を少し広げて、訳者とか出版社の編集者や営業担当者など「作者サイドの人々」について考えるなら、中には感想文を読む人もいるかもしれない。あ、そうそう。『マーベラス・ツインズ』の挿絵を担当している絵師は藤田香だが、この人も当然「作者サイドの人々」のうちに含まれる。
藤田香といえば、ラノベ系の人なら『悪魔のミカタ』シリーズを真っ先に思い浮かべるかもしれない。でも、個人的には、かなり前の作品だけど『明清疾風録』が今でも印象に残っている。

ああ、残念! 書影データがないようだ。
『明清疾風録』を武侠小説と呼ぶのはちょっと無理があるかもしれないが、昔の中国を舞台にしてヒーローが活躍する冒険活劇物語であることには違いない。たぶん今は品切れだろうし、芦辺拓には本業のミステリのほうにもっといい作品がいくらでもあるので強いて探して読むこともないと思うが、挿絵は非常に素晴らしかった。『マーベラス・ツインズ』の挿絵とは全然タッチが違うけど。
さて、作者または作者サイドの人々に読ませるために書評や読書感想文を書くという動機は脇において、次に2について考えてみよう。ある本を読んだ感想を同じ本の読者と共有したり、異論をぶつけたりするために感想文を書くというパターンも当然考えられる。でも、金庸ならともかく古龍はあまり日本では読まれていない作家だから、感想文をアップしたからといって読者相互のコミュニケーションの輪が広がるとも思えない。いや、商業出版に乗る程度には読者がいるはずだから、真面目に感想文を書けば何かがどうにかなるかもしれないが、別に本格的に古龍論を世に問うつもりは毛頭ないし、そんな時間があるなら、まだ読んでいない『辺城浪子』を積ん読本の山から発掘して読んでみたいものだ。それに、まだ1巻が出たばかりの『マーベラス・ツインズ』にはたいして語るべきことはない。
さくさく薦めよう。次は3だ。
未読の人に対して本を薦めるために感想文を書く人は多いし、「一本足の蛸」でも過去に何度かそういうことをやったことがある。でも、よく考えてみれば、不特定多数のそれぞれ趣味嗜好の違う人々に1冊の同じ本を薦めるというのは結構勇気のいることだ。万人にとって読む価値のある本など全く皆無とは言わないまでも滅多に存在しないはずだ。古龍のように癖の強い作家の場合はなおさらで、誰彼なしに薦めていいものではない。
では「○○○○な人にはお薦めできないが、××××が好きな人は是非一読をお勧めしたい」というのはどうか。あ、「薦」と「勧」が混在しているが、これは誤変換ではないよ。「本をススめる」場合は「推薦」だから「薦」、「本を読むことをススめる」場合は「勧奨」だから「勧」をあてることにしている。まあ、半分くらいはへりくつなので、このような使い分けを他人にすすめるわけではないけれど。えっと、「使い分けをススめる」はどっちなんだ?
脱線した。
「○○○○な人にはお薦めできないが、××××が好きな人は是非一読をお勧めしたい」という物言いは便利だからつい使ってみたくなるけれど、よく考えれば相当不遜な言い回しだ。勝手に他人の読書傾向を値踏みしてカテゴライズした上で、特定の本を薦めたり薦めなかったりするのだから。まあそれでも当たっていればいいのだが、時には評者の無知無理解がさらけ出されることもあり、見苦しいことこの上ない。そのことに気づいたので、以前はよく「○○○○な人にはお薦めできないが、××××が好きな人は是非一読をお勧めしたい」という言い回しを使っていたが最近はあまり使わないようにしている。広くお薦めはできないけれど、どうしても薦めてみたいという本があれば、「××××が好きな人には特にお薦め」とだけ言うことにしている。
で、『マーベラス・ツインズ』の場合だと、さていったいどういう読者層に薦めればいいのだろうか? 「武侠小説が好きな人」? いや、そんな人には今さら薦める必要はないだろう。「これまで武侠小説をあまり読んでいなかったが、少し関心のある人」? うーん、それならまず『多情剣客無情剣』を薦めたい。品切れだけど。
そんなわけで、いったい誰に向かってこの本を薦めたらいいのか、全くもって見当がつかない。無類に面白いのは確かだが、その面白さがどういう人のツボにはまるものなのか。誰でもいいから実際にこの小説を読んで、どのような人に薦めるべきかを教えてほしいくらいだ。
だんだんぐだぐだになってきたので、さっさと最後の4を片づけてしまおう。
自分のために感想文を書くというのは当然ありだ。そんなの大学ノートの隅っこでやればいい、と非難する人もいるだろうが、他の人にも読まれうる環境に文章を遺しておくということは、単に私的なノートに書き記すのとは別の意味があるように思う。でも本心を言えば、そんなのは大学ノートの隅っこでやればいい。
結局、『マーベラス・ツインズ』の感想文を書くべき積極的な理由はほとんどないことが判明した。強いていえば、さっき脇においておいた1の後半「作家サイドの人々」に読ませるため、というのが少しばかりひっかかる程度だ。というのは、前回も書いたが、やっぱりこの訳題はいかがなものかと思うからだ。なんでもかんでもカタカナ言葉にしてしまう欧米かぶれはよろしくない。欧米では考えられないことです。
でも、漢字ばかりのタイトルだと年少の読者には敷居が高いから、という営業上の判断もわからないではない。それに、今さら文句を言ったところで、途中でタイトルを変えるわけにもいかないだろう。だから、強いて出版社の人に感想文を読ませて抗議する気はない。仮にその気があるのなら、こんなところに感想文を書くのではなくて、さっさとコーエーにメールを送っているよ!
以上、ぐたぐだでめためたでよれよれの感想文、というか、なぜ感想文を書く気にならないかという言い訳でありました。お疲れ様でした。