ハイアート

ここで見かけて、ちょっと気になった。そこで、調べてみると、次のような説明が見つかった。

「高級芸術」と「大衆芸術」。一見古く思われるこの対立図式が登場したのは比較的新しく、19世紀ヨーロッパの都市社会においてである。この時代、都市に大量に流入した低所得・低学歴の労働者たちは、日々の仕事の合間の余暇を過ごすのに親しみやすく、わかりやすい「大衆芸術」を必要としており、以後それは理解に一定の教養を要する絵画や演劇、オペラなどの「高級芸術」と対置されることになった。ある意味では、「高級芸術」としてのモダニズム芸術の純度は、「大衆芸術」との対立によって確保されたものといってよく、C・グリンバーグの「アヴァンギャルドキッチュ」では、「後衛」との対置によってこそ「前衛」の水準が確保されうるとの立場が明解に表明されている。無論、この対立図式は一方で多くの作家・批評家の批判の的ともなってきた。「バッド・ペインティング」のような逆説は紛れもなくこの図式に向けられたものだったし、「ポップ・アート」の台頭は、後期資本主義社会における「高級芸術」と「大衆芸術」の分割に重大な疑問を問いかけた。そして1980年代以降のポストモダニズムは、もはやこの分割がパロディとなってしまったことを明らかにした。

「ちょっと気になった」のは、ほかでもない、オタク業界で作っている作品は、果たして大衆芸術といえるかどうかという点だ。独断と偏見丸出しで言ってしまうと、たとえばAVは大衆芸術だがエロゲーはそうじゃないような気がする。かといって、エロゲーがハイアートだということもないだろうし。
修悦体はハイアートなのか大衆アートなのか。「みちぶしん」はハイアートなのか大衆アートなのか。『非現実の王国で』はハイアートなのか大衆アートなのか。考え始めると謎は尽きない。
もちろん二項対立の図式というのは概して「どちらの区分に入るのかがよくわからない事項」と「どちらの区分にも入らない事項」を抱え込むもので、そのこと自体を問題にしてしまうと、図式的に語るということがほとんど不可能になってしまうから、あまり目くじらを立てるべきではない。だが、そうは言っても例外事項があまりにも多くなってくると、もはやその対立図式は使い物にならなくなる。「ハイアート」という言葉が完全に無効になったとまでは言わないが、留保条件なしでは使いづらい言葉ではないかと思う。