芋に本質はない

物事なんでも本質がある、と考える人が一方にいて、他方には、物事の本質などというものはない、と考える人がいる。どちらも極端な考え方であり、実際のところは本質のある物事もあれば本質のない物事もあるというところだろう。とはいえ、極端な考えに積極的に与するわけではなくても、個別の場面である物事を前にしたとき、何となくそれに本質があるということを前提に考えを進めてしまう傾向のある人が多いように見受けられる。
本当は「○○の本質とは何か?」という問いの前に「○○は本質のある事柄なのか、それとも本質のない事柄なのか?」ということを問わなければならない。そのプロセスを抜きにして、いきなり本質探究の旅に出ても迷走して遭難するだけだ。
さて、この世の中には芋という物がある。「芋」という言葉は、ある種の植物の部位を指すこともあれば、そのような部位を有する植物を指すこともある。ここでは紛れを避けるため降車を「芋類」と呼ぶことにする。
芋も芋類も実在する物であり、虚構物ではない*1。しかるに、芋にも芋類にも本質はない。

芋(いも)とは、植物の根や地下茎といった地下部が肥大化して養分を蓄えた器官である。特にその中で食用を中心に人間生活の資源として利用されるものを指すことが多い。但し、通常はタマネギのような鱗茎は含めない。

ジャガイモの地下茎の一部とサツマイモの根の一部をともに「芋」と呼ぶのは、どちらも塊状の見かけを持ち、食用に供せられるなどの共通点があるからだ。そのような共通点を「本質」と呼びたいなら、芋にも本質があると言ってもいいだろう。しかし、伝統的な形而上学では、本質とは「それをそれたらしめるところのそれ」であり、見た目がどうかとか食べられるか否かということは少なくとも植物学的な本質ではない。ジャガイモもサツマイモも人間がもつ特定の関心のもとにおいて芋であるのであって、その関心から離れた芋そのものの本質などというものがるわけではないのだ。
では、植物などの自然種とは違って、もとから人間の関心によって作られている人工物には、全く本質はないということになるのだろうか? さまざまな事物の間の共通点がすべて人間の関心に依存するのだとすれば、それらから全く独立でそのもの自体に備わっている本質などというものを考慮する余地が皆無だということになるのではないか。
この問題については、今のところ明確な答えを持ち合わせていないが、人工物についても、少なくとも自然種に類似した本質もどきがあるのではないか、とぼんやり考えている。「本質もどき」という言葉が穏当でないなら、「準-本質」とでも言い換えてもいかもしれない。人工物は、創作意図や使用目的など、さまざまな点で人間の関心に依存しており、完全に相対化を免れることは不可能ではあるのだが、形式的には同じ相対項であっても、中には純粋に「人それぞれ」というものもあれば、比較的安定多数の関心によって支持されているものもあるだろう。後者の究極は「そのものを前にしたとき誰しもその関心から逃れ得ないところの関心」というものだろう。もし、ある人工物がそのような究極的関心によって支えられているとすれば、その関心は「それをそれたらしめるところのそれ」に極めて近似したものに違いない。
もっとも、そのような究極的関心の実例を示すことはできないし、将来的にできるようになるという見込みもない。理念的あるいは規範的には想定しえるとしても、実際にはそんなものはどこにもなのではないような気がする。世界は「人それぞれ」の雑多な寄せ集めによって構成されている。でも、それは出発点ではあっても終着点ではないのではないか、というようなことを「人それぞれ」という結論は無価値だが、前提として不可欠ではある話 - 魔王14歳の幸福な電波を読んで思いついた。
最後に、[分類] - 押入れで独り言にもリンクしておく。人工物の中の人工物、物理的実体を持たないフィクションの世界において、ジャンルの本質を探究することが可能かどうかという難問に挑んでいるスリリングな論考*2だ。カテゴリー論に関心のある人はみな、ぜひ遡って最初から通読されたい。

*1:架空の物語にのみ出てくる芋は虚構物だろうが、そのような例外は無視する。

*2:というのはかなり偏向した見方だと思う。たぶん筆者は一般論の叩き台としてケーススタディを行っているのではないのだろうから。