屋内できちんと「分煙」するのは結構難しい

数日前のこと。仕事の都合で訪れた会社で、少し時間があいたので何か飲もうと思い廊下の端に置かれていた飲料の自動販売機に近づくと、何だかえらくヤニ臭い。そのにおいは自販機に近づくにつれ耐え難いほど強まっていき、何か変だと思ったら、ちょうど自販機の隣のドアが開いて、中から人が出てきた。そう、その自販機は喫煙室の入口のすぐ隣に置いてあったのだ。
昔はオフィスの執務室でみんなスパスパ煙草を平気で吸っていて煙たかったものだが、昨今は喫煙者を喫煙室に押し込めることで事務スペースの空気はかなり清浄になった。その分、喫煙室喫煙コーナーはとてつもなく煙の濃度が高い空間になってしまっている。あれでは喫煙者でも辛いだろうと思うのだが、ヤニで薄汚れたガラス窓越しに中を見ると案外平然としているので、慣れというのは恐ろしいものだ。
喫煙者が煙草部屋で煙に巻かれてどうなろうが知ったことではないのだが、部屋の外まで濃密な煙やら臭気やらが漂ってくるのはたまらない。息を止めて一瞬で前を通り過ぎればたいして被害もないのだが、先の自販機の場合のように、数分間立ち止まって何かの作業をするときには息を止めたままではいられない。喉は痛くなるし、目のまわりはかゆくなる。鼻の奥がむずむずしてくしゃみを連発することもある。こんなことは分煙前には考えられなかったことだ。わざわざ金をかけてかけた喫煙室のせいで、局所的にではあるが従来以上に強烈な煙草の刺戟に晒されることになるというのは、なんだか理不尽な気がする。
ワープアにはタバコも子供も金持ちの嗜好品に見えるかも。 - ビジネスから1000000光年経由で山形市喫煙室設置反対というページをみて、数日前の経験を思い出した次第。分煙のために喫煙室をつくるという発想そのものは悪くないが、目的を十分果たせない喫煙室ならまずいよなぁ。

今の市役所の隅にある喫煙コーナーを,多少仕切って,外への排気を行うような案だと理解しました

引き違いドアをつけるとの説明で,おそらく,出入りの際には,煙の漏れて,下記に示す厚生労働省の求める基準を満たさない対策であると思いました.

【略】

また,今回の要望は,個人に喫煙を迫っているわけではありません*1.病院や学校の禁煙などと同じように,エリア規制であり,吸いたい人は受動喫煙の問題の無い場所で喫煙をすれば良いのです.市役所は,幼児・妊婦やゼンソクなどの病気の方への特段の配慮ももちろんですし,職員のなかでも妊婦や病気のある人でも安心して仕事ができる職場を提供すべきです.重要な市長の義務と思います.

もし,不完全な喫煙室整備を行った場合,受動喫煙訴訟を起こされれば,市側は敗訴する可能性があります.(江戸川区では職場の喫煙対策を十分しなかったために,職員に提訴され敗訴した判例が2004年7月にあります)

同じページには地方公務員法に基づく職務中の喫煙違法論も書かれていて話がややこしくなっているが、それは傍論なのでさておき喫煙室の問題点を指摘した箇所に限れば、概ね妥当なことを書いていると思った。

要するにこのサイトの運営者、納税者としてこんなものにカネを払いたくないのである。喫煙家は嫌煙家に金銭的な迷惑をかけているというわけだ。

いや、それ違うでしょう?
一歩譲って、このサイトの運営者が心の底ではそう思っているのだとしても、少なくとも文面からそのような主張が読み取れるわけではない。このサイトの運営者は役所がこんなものにカネを払ってはいかんと言っているのであり、納税者としてカネを払いたくないというような話をしているわけではない。また、喫煙家が嫌煙家に対して迷惑をかけるかどうか、という立場上の対立を議論に持ち込んでいるわけでもない。当然のことながら、役所が税金を無駄に使えば、喫煙家も嫌煙家も等しく金銭的に迷惑を被るのだから。
喫煙問題はしばしば「喫煙者vs.嫌煙者」という対立の構図で語られることが多いが、常にその図式が妥当するわけではない。たとえば、医学的観点からみれば喫煙問題とはつまるところ「煙草の害vs.人々の健康」の対立をどう解消するかという問題だ。たまたま山形市喫煙室設置反対のページでは「喫煙室」という主題を扱っているため、「喫煙者vs.嫌煙者」という構図に引き寄せて読んでしまいがちだが、山形県喫煙問題研究会の他のページを読んでみれば、喫煙室設置反対という主張を行っているのは喫煙率を下げるため*2の戦術であり、決して喫煙者に対してイデオロギー的闘争を挑んでるわけではないことが、容易にわかることだろう。

追記(2009/04/18)

CAX “一歩譲って” 一歩しか譲る気はないんだ(w。 2009/04/18

「一歩譲って」って慣用句*3でしょ? 何か問題でも?

追記の追記(2009/04/18)

百歩神拳 - CAXの日記経由で一歩と百歩 - 玄倉川の岸辺とその続きの一歩と百歩 その2 - 玄倉川の岸辺を読んでみた。しつかりと調べてあってためになる。
ところで、本文で「一歩譲って」という言葉を、もちろん全面的な譲歩の意味で用いたわけではない。議論の場においては、「本当はどう思っていたか」とか「心の中ではどう考えていたのか」などという内心の事情よりも、「そこで何が主張されているのか」とか「その主張はどの程度の強度をもつのか」という事柄のほうが重要なのだ、という含みが「一歩譲って」には込められている。もっとも、本文を書いたときに、そこまで考えていたわけではなくて、後から読み返してみればそのような含みが読み取れるということなのだが。
おまけ。はてブからもう一つ。

triggerhappysundaymorning 「百歩譲って」は相手に対して譲歩する時に使う,「一歩譲る」は相手より少々劣っている様を表す,それぞれ慣用句的には.自分用語を「慣用句でしょ」と主張するのは妙. 2009/04/18

相手より少々劣っている様を表す「一歩譲る」という言葉はあるが、それを「一歩譲って」と活用する慣用があるのだろうか? 一歩譲って、そういう用法があるのだとしても、「一歩譲って」が譲歩を表すことあるということにかわりはないのだけど。

*1:文脈から察するに、ここは「個人に喫煙を迫っているわけではありません」と書くべきところを誤記したのだと思われるが、原文ママとした。

*2:もっとも、純粋に医学的観点のみから考えるなら「吸いたい人は受動喫煙の問題の無い場所で喫煙をすれば良い」と言ってしまうのはちょっとまずいような気もするが、大上段に全面禁煙を言い立てても感情的な反発を招くだけで、喫煙率の減少という目標に対して逆効果となる恐れがあるから、これはやむを得ないところだと思う。

*3:他人が「百歩譲って」と書くことにいちいち目くじらを立てたりはしないけど、自分から進んで「百歩譲って」を使おうとは思わない。