匿名希望

子供の頃、新聞の読者投稿欄でよく「匿名希望」という表記を見かけた。当時その言葉を知らなかったので、「匿名希望」というのは名前だと思っていた。「匿名」が姓で「希望」が下の名前だ。
「希望」は「きぼう」と読む。そういう名前の人がいることは知っていた。では「匿名」はどうだろう? 知り合いにはそんな姓の人はいない。だが、世の中には変わった姓がたくさんあるのだから「匿名」という姓があってもおかしくはないだろう。ところでこの姓どう読むの?
「匿」という漢字は習っていなかったし、ほかに使われているのを見たこともない。今でも「秘匿」と「隠匿」ぐらいしか知らないくらいだ。子供の知識に「匿」の読みが含まれていなくても仕方がない。「とく」とは読めなかったので勝手に「じゃく」と読んでいた。「若」の音読みだ。
「じゃくめい」? 変な読み方だ。語呂が悪い。たぶん音読みではなく訓読みすべきなのだろう。そうすると「わかな」か。ミスワカナという例もあるくらいだから、「わかな」という姓があってもおかしくないだろう、と子供心に納得したものだ。もちろん、ミスワカナの「ワカナ」は姓ではないことなど知るよしもなかった。
さて、この「わかな・きぼう」氏は投稿マニアなのか新聞社に特別なコネでもあるのか、頻繁に「わかな・きぼう」氏の意見が新聞に掲載される。平均すれば1週間に2回くらいだったろうか。多いときには3日くらい連続で「わかな・きぼう」氏の投稿が掲載されたこともある。多くは政治関係の話題だったが、凶悪犯罪に憤り、若者のモラルの低下を憂い、自然に親しむことの大切さを説き、マスコミに対して物申すこともあった。とても一人の人間とは思えないくらいだった。
次第に「わかな・きぼう」氏に疑いを抱くようになった。どうもこれは一人ではないのではないか。投稿を志すグループが共通に用いる変名ではないか。そう思ったのだ。だが、それにしても意見があまりにバラバラで特定の主義信条があるように見えないのは解せないことだ。
やがて「わかな・きぼう」=ハウスネーム仮説*1よりましな仮説を思いついた。「わかな・きぼう」というのは自分の本名を隠したい人が用いる変名だという仮説だ。この仮説はよくできていて、この仮説では説明できないような不都合な要素は全くなかった。
「匿名希望」の読み方が「わかな・きぼう」ではなく「とくめいきぼう」であることを知ったのはずいぶんと後になってからのことだ。そして、この語が名前ではない*2ということを知ったのは、もっと後になってからのことだ。

*1:もちろん「ハウスネーム」という言葉そのものは知らなかった。

*2:言うまでもなく「匿名希望」は不確定記述句であり固有名ではない。