茶外茶

昨日、麦茶を沸かしながら、ふと「この香ばしい香りはコーヒーに似てるなぁ」と思った。で、そのとき感じたことを素直にTwitterでつぶやいた。

twitter記法を使って引用したら、最後のほうがちょっとおかしくなってしまったが、まあそんなことはどうでもいい。
コーヒーは茶ではないのは当たり前だ。少なくとも日本ではそうだ。香港には鴛鴦茶と呼ばれる飲料があり、たぶん日本でも探せばあるとは思うが、これはコーヒー豆100パーセントではないから除外して考えることにする。
麦茶も黒豆茶も茶のうちに含まれるのに、なぜコーヒーは茶の仲間ではないのか。
ひとつの答えはこうだ。「麦茶も黒豆茶も茶に類似した飲料だから『○茶』と呼ばれるだけで、本当は茶ではない。真に茶と呼びうるものは茶葉を用いた飲料のみだ」もうひとつの答えはこうだ。「あるものが茶であるか否かは『茶』という語がどのように使われるかによって決まり、必ずしも対象のもつ属性に依存するわけではない。コーヒーが茶ではないのは、単にそのような言語規則がないからであり、本当の茶なるものがどこかにあるわけではない」
さて、どちらのほうがもっともらしいだろう? そんなことを考えながらいろいろ検索しているうちに知ったのが、「茶外茶」という言葉だった。もとは中国語で、日本語の単語としてどの程度定着しているかはよくわからないのだが、あえて拘る必要はないだろう。
「なぜコーヒーは茶ではないのか?」という当初の問いを「なぜコーヒーは茶外茶ではないのか?」と言い換えてみると、ふたつの回答案のうち前者は全く無効であることがわかるだろう。一方、後者は依然として回答として機能しうる。よって、後者のほうがよりよい答えだ、と言い切っていいものかどうか。実は何も説明していないのではないか。
ふと思いついたのは、コーヒーとはブラウン神父のような位置づけにあるのではないかということだ。麦茶や黒豆茶は、ソーンダイク博士や思考機械のようなもので、ひっくるめてシャーロック・ホームズのライヴァルたちと呼ばれるが、ブラウン神父はふつうホームズのライヴァルのうちには含まれない。なぜ含まれないのかといえば、ブラウン神父が、一般的な知名度はともあれ、ホームズと並び立つ大探偵だからで、十把ひとからげの群小探偵とは異なるからだ、とされる。コーヒーと茶外茶の関係はこれに似ているのではないか。
では、ココアはどうよ、という話になってくると、このアナロジーはかなり苦しくなるのだが、無理矢理たとえるなら、アルセーヌ・ルパンのようなものか。いや、これには異論もありそうだ。
だんだん収拾がつかなくなってきたので、今日はこれでおしまい。続きを書く予定はないよ。