2015年3月に読んだ本14冊(うち小説6冊/マンガ4冊)

学校へ行けない僕と9人の先生 (アクションコミックス)

学校へ行けない僕と9人の先生 (アクションコミックス)

裏切りの日日 (集英社文庫)

裏切りの日日 (集英社文庫)

かけおちる (文春文庫)

かけおちる (文春文庫)

クイーンのフルハウス (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-28)

クイーンのフルハウス (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-28)

バラの中の死 (光文社文庫)

バラの中の死 (光文社文庫)

りんごかもしれない

りんごかもしれない

号泣 (集英社オレンジ文庫)

号泣 (集英社オレンジ文庫)

今月はわりと忙しかったわりにまずまずよく読めたほうだと思う。
『クイーンのフルハウス』は再読だがそれ以外はすべて初読だ。また、青山文平、日下圭介、松田志乃ぶの3人の小説家の本を読むのはそれぞれ今回が初めてだ*1年始に「これまでに1冊も読んだことがない小説家の本を10冊以上読む」という目標を立てたが、1月に7冊読んでいるから、これで目標を達成したことになる。
今月読んだ本はみな面白かったが、ミステリに限っていえば上に掲げていない小説がいちばん面白かった。それは友井羊が「小説すばる」で不定期連載していた“青春洋菓子ミステリ”シリーズ*2で、これは久々に「やられたっ!」と脱帽した。早く書籍化してほしいものだ。

*1:「なんで、今まで日下圭介を読んでいなかったの?」と問われるもしれないが、「ただ何となく」としか言いようがない。確か倉庫には日下圭介の本が2冊か3冊か埋もれているはずだ。

*2:このシリーズ名は、最終話「コンヴェルサシオンがなくならない」が掲載された「小説すばる」2015年4月号で用いられたものだが、それ以前には見た記憶がない。シリーズ名がないのは不便だとずっと思っていたところだ。

2015年2月に読んだ本6冊(うち小説2冊/マンガ2冊)

地獄のリラックス温泉 1 (BUNCH COMICS)

地獄のリラックス温泉 1 (BUNCH COMICS)

ホット・ロック (角川文庫)

ホット・ロック (角川文庫)

イスラム国の正体 (朝日新書)

イスラム国の正体 (朝日新書)

ジェゼベルの死 (ハヤカワ・ミステリ文庫 57-2)

ジェゼベルの死 (ハヤカワ・ミステリ文庫 57-2)

お姉さんの食卓 (リュウコミックス)

お姉さんの食卓 (リュウコミックス)

1月には18冊読んだのに、2月はその3分の1しか読めなかった。日数が3日少ないとはいえ、これは低調すぎる。
月の前半は猛烈な残業、後半は猛烈な発熱、と読書にはあまり向かない状況だったので、やむを得ないことではあるのだけれど。
しかし、このわずかな冊数のなかで『ホットロック』という傑作を読んでいる。『ジェゼベルの死』も傑作だが、こちらは再読なので、傑作だと知りつつ読んだ。『ホットロック』のほうは、世評は高いものの、好みにあうかどうか不安だったのだが、杞憂だった。いい小説に巡り合えてよかった。

固定観念に楔を打ち込まれた話

「イスラーム国」の表記について - 中東・イスラーム学の風姿花伝はてなブックマーク - 「イスラーム国」の表記について - 中東・イスラーム学の風姿花伝のいくつかのコメントに見られる意見の対立について考えているときに、こんな記事を読んだ。

湯川遥菜さん他一名がイスラム国(武力による現状の変更を支持するのでこの名称を用います)に殺害された結果、日本人が皆イスラム国の機関誌 DABIQ を読むようになりました。

イスラム国」ないし「イスラーム国」の呼称問題が頭にあったので、最初は括弧の中に目が行ってしまい読み逃したのだが、再度読み返してみると「湯川遥菜さん他一名」という言い回しの含蓄に気がついた。
最近の報道を見聞きするうちに、いつの間にか「後藤健二さん他一名が殺害された事件」というふうに認識するようになっていたことに気づかされたのだ。
これはつまり……と続く話はありません。これだけ。

2015年1月に読んだ本18冊(うち小説11冊/マンガ6冊)

鑑識女子の葉山さん 1 (ゼノンコミックス)

鑑識女子の葉山さん 1 (ゼノンコミックス)

赤い右手 (創元推理文庫)

赤い右手 (創元推理文庫)

財政危機の深層 増税・年金・赤字国債を問う (NHK出版新書)

財政危機の深層 増税・年金・赤字国債を問う (NHK出版新書)

砂男/クレスペル顧問官 (光文社古典新訳文庫)

砂男/クレスペル顧問官 (光文社古典新訳文庫)

愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える (光文社古典新訳文庫)

愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える (光文社古典新訳文庫)

旧校舎は茜色の迷宮 (講談社ノベルス)

旧校舎は茜色の迷宮 (講談社ノベルス)

扉は閉ざされたまま (祥伝社文庫)

扉は閉ざされたまま (祥伝社文庫)

恋と禁忌の述語論理 (講談社ノベルス)

恋と禁忌の述語論理 (講談社ノベルス)

ワン・モア (角川文庫)

ワン・モア (角川文庫)

去年1年間、毎月読んだ本をこの日記に書き留めていた。せめて感想でも書いていれば参考になるかもしれないが、ただ「こんな本を読みました」では他人にとっては全く無益だろう。ほぼ純粋に私的な備忘録としての意味合いしか持っていない。
年が明けたのでもうやめようかとも思ったのだが、毎月1回必ず日記を更新する契機にもなるので、やはり続けることにした。今年は読んだ本の総数のほか、小説とマンガの内数も見出しに掲げることにした。こうすれば後で集計するのが楽になる。
さて、1月は予想以上に小説を読んでいて驚いた。11冊のうち『扉は閉ざされたまま』は再読*1だが、他はすべて初読だ。また、獅子文六、ロジャーズ、ホフマン、マンシェット、明利英司、井上真偽、桜木紫乃の7人の小説家の本を読むのはこれが初めてだ。年始に立てた目標に従い、意図的にこれまで読んだことがない小説家の作品を選んで読んだ結果だ。この調子だとすぐに目標を達成してしまいそうだ。
今月は過去に1作か2作読んだことがある作家に目を向けることにしようかと思っている。ただ、仕事の都合で読書の時間がかなり減る見込みなので、先月ほどは読めないだろう。せめて5冊くらいは読みたいものだが、さて……?

*1:ただし、初読はノベルス版だった。

「自己責任論」で中生代に退行する日本

「自己責任論」で中世に退行する日本(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュースを読んで最初に感じたのは、この筆者の歴史の理解には明らかな間違いがあるということだった。
それは次の箇所に典型的に見られる。

「(シリアに渡航した)動機が不純だから、国家は彼らを助ける必要がない」という自己責任論がまかり通るのなら、それはもう「鎖国という祖法を破って、海外に渡航する領民については、何をやっても幕府は捨て置く」という、江戸時代の日本の、中世の世界観と瓜二つである。

実際には、江戸幕府は、「祖法」を破って海外に渡航する日本人については、抜荷(密貿易)の事実がない限りはおおよそ黙認していたが、それと合わせて「出国」した日本人については、当地でどんな目にあおうが原則「黙殺」の態度を貫いていた。「国民国家」という意識の薄い、前近代の中世の国家にあっては、同胞意識は限りなく薄弱だった。「同じ日本人」という概念は限りなく薄いのが「国民国家」が形成される以前の、中世に於ける同胞意識だ。

だから例えば、戊辰戦争で薩摩の藩兵が会津で暴行陵虐の限りを尽くす、という悲劇が平気で起こる。「国民国家」以前の世界には、「同じ同胞の日本人」という意識がきわめて希薄なのだ。

「動機が不純だから、国家が保護する必要はない」という、今回の事件を契機にまたも沸き起こった「自己責任論」は、このような前近代の中世の世界観を彷彿とさせるものだ。

この人は、江戸時代が中世だったと勘違いしているのだろうか?
「古代・中世・近代」という三区分では近代のすぐ前は中世ということになる。そして日本における近代は概ね明治維新から始まっているのは疑いえない。従って、その前の江戸時代は中世だということになるのだが、それはさすがに無理が大きい。
というわけで、日本史では中世と近代の間に「近世」という区分を設けていて、論者によってその範囲は少し違うものの、江戸時代は近世に区分するのが常識だ。
「自己責任論」で中世に退行する日本(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュースを書いた人は立命館大学史学科出身だそうなので、それくらいのことを知らないはずはないのだが、なぜ基本的な歴史学用語を誤用したのだろうか? 「中世」という言葉を使わずに「前近代」とだけ言っておけば、辞書レベルでの間違いを指摘されることもなかっただろうに*1
さて、「中世」という語の用法は瑣末なことかもしれない*2が、上で引用した箇所には歴史学の素養の有無にかかわらず明らかに受け入れがたい主張がみられる。「彷彿」という言葉に曖昧にされてはいるが、「自己責任論」と中世の世界観の類似性が示唆されていて、これが文章のタイトルにも繋がっているのだが、常識的に考えて、近年幅をきかせている「自己責任論」が前近代にあったわけではないし、仮に類似する考え方があったとしても、それと「同じ同胞の日本人」*3という意識の薄さとは無関係だ。
この文章の厄介なところは、「同胞」や「同胞意識」という語に国民国家を重ね合わせていることだ。戊辰戦争薩摩藩兵の間にも、「同じ薩摩の同胞」という意識はもちろんあったはずで、時代をずっと古代・上代まで遡っても、同胞意識が限りなく薄弱だった時代があるとは考えにくい*4。歴史的に「同胞」の範囲が拡大してきたということとと、「自己責任論」に代表されるような現在進行形の「同胞意識」の解体は全く別のことであり、これを「中世への退行」と言ってしまうのは無茶苦茶だ。これでは、「自己責任論」の台頭とグローバリズムの進展との関係が隠蔽されてしまう。
ほかにも、いろいろもやもやすることはある。たとえば、「同胞意識」はしばしば「同胞ではない他者の排除・迫害」を伴うもので、これは別に国民国家成立以前も見られたことではあるのだが、近代ではそれが激化して数多くの戦争をひきおこしているということ、そしてしばしば戦争の発端が「在外邦人の安全確保」であったり「在外邦人殺害への報復措置」であったりすることは、大いに強調しておくべきだろうに、「正当化するつもりはない」と言いつつ台湾出兵を引き合いに出すのはいかがなものだろうか、と思った。
だが、そのような「もやもや」はともかく、まずは歴史理解のおかしさを指摘しておきたいと思った次第。

*1:はてなブックマーク - 「自己責任論」で中世に退行する日本(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュースでも既に何件かツッコミが入っている。

*2:そうは思わないからこの記事を書いているわけだが、人によっは言葉の上の問題を事実問題と峻別して前者を後者より軽くみることがある。

*3:「同じ同胞」というのは馬から落馬するような言い回しだが、目くじらを立てる必要はないだう・

*4:人類発生以前まで遡れば話は別。たとえば、中生代に同胞意識などあったはずもない。だが、もちろん中生代には「自己責任論」もなかった。

読書に両性の別はあるか?

見出しの「両性」とは男女の性別のことだが、そう書くと「男」が「女」の前に出るし、それを嫌って「女男」と書くのは少しやり過ぎの感がある。いっそ「嬲」はどうか、などとあらぬことすら考えたが、結局は「両性」に落ち着いた。あまり日常的には使わない言葉かもしれないが、日本国憲法第24条で用いられている言葉*1だから悪くはない。なお、ふだんから「男女」という言葉を忌避しているわけでもなければ、言葉狩りなど毛頭考えていませんので、誤解なきよう。
さて、読書と性別ということについて考えてみる気になったのは、次のような文章を目にしたからだ。

この文章は大きく3つの部分から成っている。

  1. 紀伊國屋書店渋谷店が行った、男子書店員が選んだ女性に読んでほしい本の企画への批判
  2. トーハンと出版社12社が行った「文庫女子」フェアへの批判
  3. 前2者に対抗した、女性におすすめする女性主体の本の紹介

1と2はいいとして、書店や出版社の企画への反発がなぜ3という形になってしまうのか、やや疑問があった。というのは、「文庫女子」などの企画の愚劣さは、まず何を置いても読者を性別で分断していることにあると思うからだ。だが、「文庫女子」フェアが色々ひどすぎた - 田舎で底辺暮らしを読み直してみると、そこで批判されているのは、男性が女性読者をバカにしている、ということのようだ*2。なるほど、それなら対抗して女性におすすめする本の紹介をするという流れになるはずだ。
と、理解はしたものの、やはり釈然としないものが残る。それが、今日の見出しに繋がる。果たして、読書において性別というものがなんらかの意味をもつものだろうか?
スポーツ競技においては、女子と男子は歴然と区別されているのが普通だ。その区別にどの程度の合理性があるのか判断することはできないが、生物学的な身体の構造や体力の差などが背景にあるのだろうと想像することはできる。
同じ勝負事でもスポーツを離れると事情は少し違ってくる。たとえば、囲碁にも将棋にも「女流棋士」と呼ばれる人がいるが、将棋の女流棋士棋士ではないのに対し、囲碁女流棋士は単に女性の棋士に過ぎない*3そうだ。囲碁と将棋でなぜ違いがあるのかは知らないが、盤上競技の世界は生物学的な性差が現れるか否かの境界線上に位置しているのかもしれない。
では、読書はといえば、これはもう競技でもなければ勝負事でもなんでもない。性差など何の関係もなく、好きなように本を選んで読めばいいのであって、そこに「自分は女だから……」とか「ここは、男として……」などという意識が入り込む余地がどれほどあるというのか。いや、世の中には男性向けの本や女性向けの本が大量に溢れているではないか、と反論する人もいるかもしれないが、それは出版社や取次、書店などが勝手にレッテルを貼っているだけで、一人の人間として一冊の本に向かうとき、そんなものは雑事に過ぎない。
……と書いてはみたものの、やっぱり女性と男性では読書の傾向に若干の違いはあるのだろうな、と薄々感じてもいる。とはいえ、本は多種多様であり、読者の好みも多種多様だ。個人差が極めて大きい読書という行為において、性差などほんのわずかなものではないか、と考えたくもなるのだ。
以上で述べたことは、あくまでも趣味の読書に関する意見であって、実用書の類を必要に迫られて読むような局面は想定していない。たとえば、ラマーズ法の実践方法について書かれた本を読むとき、男性が読むのと女性が読むのとでは、かなり意味合いが違ったものになるのは確かだが、そういうことは関心の埒外であるので、ご留意いただきたい。

*1:ちなみにさまざまな差別を禁じた憲法第14条では単に「性別」とされている。

*2:もしかしたら、この解釈は少し違っているかもしれない。だが、読者を性別で分断していることに対する批判がほとんどみられないのは事実だ。

*3:というのは、棋士 - Wikipediaの受け売り。

年の初めに

昨年はどうやら1月1日に日記を書かなかったようだ。何か事情があったのか、それとも単に気が向かなかっただけなのかは、今となってはもう思い出すことができない。
では一昨年はどうだったかといえば、こんな文章を書いている。

今さら言うまでもないが、一年の始まりとか終わりとかいう区切りは人間が勝手に決めたもので、客観的に実在するようなものではない。また、人間社会の中でも暦法によっても一年の区切りは異なるし、同じ暦法を採用していても、国や地域によって異なることがある。

そうすると、一年が始まった瞬間に「あけましておめでとう」と言うのは、実は新年の訪れを言祝いでいるというよりも、自分が属する地域社会が採用している暦法や標準時へのコミットを改めて表明するという意味合いのほうが強いのかもしれない。

それはともかく、昨年「あけましておめでとう」と言ってから、今年「あけましておめでとう」と言うまでの間におよそ一年の月日が流れているのは間違いない。それは暦法や標準時に関係ない歴然とした事実だ。そして、一年の時間の経過は余命が一年短くなった証でもある。

2年前にもうゴールに到着していたという感じがする。もはや付け加えることは何もない。
ただ、件の文章の後の方で、バッハま「クリスマスオラトリオ」に含まれる「受難コラール」に言及しているのだが、それについて少し補足しておくと、キリストの誕生を祝う音楽にその死を暗示する要素を含めるのはバッハに限ったことではない。2年前は知らなかったのだが、その後、グラウプナーのクリスマス用のカンタータのCDを入手して聴いてみると、やはり「受難コラール」の旋律が入っていた。もしかすると当時のドイツプロテスタント音楽ではさほど異例のことではなかったのかもしれない。
さて、その前年、2012年の1月1日には今年の読書の目標 - 一本足の蛸という記事を書いていた。今年も目標を立てたいところだが、あまり冊数にこだわっても仕方がない。かといって冊数以外に目標数値をあげるのは難しい。
昨年は総計126冊の本を読んだが、マンガが大半を占めている。今年はもう少し小説にシフトすることにしたい。だいたい50冊程度。無理かなぁ。
もう一つ目標を立てておこう。これまでに1冊も読んだことがない小説家の本を10冊以上読むというものだ。とりあえず、新年初読みはこれにしようと思っている。

「なぜ今、獅子文六?」
「今ここに本があるからだ!」