教養主義の挫折と再生


いろいろとライトノベル感想サイトを巡って、ライトノベル読みのひとって他のジャンルに手を出さない割合が高いな、ということは昔から感じていたんだけれど、結局、いま出ている小説を追っかけるだけで十分大変なので、古典の山にまで手をのばす余裕がない、という事情も大きいんでしょうね。
それでなくてもライトノベルはシリーズものが多い。
ブギーポップ」とか「スレイヤーズ!」とか「オーフェン」とか「まほらば」とか「涼宮ハルヒ」とか「フルメタル・パニック」とか「デビル17」とかの新刊を読んでいたら、ほかのジャンルの、それも過去の名作に手をのばす気になれないのも当然かも。
つまり、ここでも教養主義は挫折している。
このように挫折した教養主義を再生させるにはどうすればいいのか。*1
原因がある程度特定できているのだから、誰だって次のような対策案を思いつくことだろう。

  1. ライトノベルのシリーズ化に制限を加える。これは、総量規制でもいいし、別の方法で規制をかけることも可能だ。たとえば、1作目と2作目では絵師を変え、3作目では版型を変えて単行本にすることを義務づけるのだ。さらに4作目を出す際には作者を変えることとする。これで、シリーズを通して読もうという読者の意欲を挫くことができる。
  2. シリーズの中に古典作品を加える。たとえば『ブギーポップvs.海底の重罪』とか『涼宮ハルヒの悪魔黙示録』とか*2それらしいタイトルで装幀も似せて、あたかもシリーズ最新刊であるかのように偽装するのだ。ページを開いて騙されたことに気づいても後の祭りだ。はっはっは。
  3. ライトノベルを国語の教科書に載せて、無理矢理読ませる。そうすると、押し付けられた「必読書」に反発した読者はおのずと過去の名作に走ることになるだろう。なお、言うまでもないが、SFやミステリの過去の名作のほとんどは、国語の教科書に掲載されていない。

とまあ、いくつかの対策案を挙げてみたが、どれもこれもあまりもありきたりのアイディアで、全然ぱっとしないのが難点だ。
ついでだから、もっとありきたりな意見を書いておこう。
教養主義に反発する人々の中には「面白いかどうか、それが唯一の価値だ」というような主張をする人がいる。この主張の背景には、教養主義は小説読みに面白さとは別の価値観を押し付けてくるものだという発想がある。
これは全く間違いだ。
なぜって、そもそも教養というのはもともと「知っていても知らなくても全く差し支えないんだけど、知っていれば知っているほど物事が面白くなる知識」なんだから。
日々、新刊を追いかけている人も、それはそれで楽しい読書生活を送っていることだろうが、ライトノベルの中にも「予備知識がなくてもそれなりに楽しめるけれど、教養があれば一層楽しめる作品」が少なからず存在する。*3そんな例をいくつか挙げて「ほら、これって面白いでしょ?」と言い添えれば、特に強制なんかしなくても、面白さに貪欲な人なら飛びついてくるはずだ。*4
ただ、世の中貪欲な人ばかりではない。何となく時間がつぶせれば、面白くてもつまらなくてもいい、という無欲な人もいることだろう。でも、そんな人は他人の感想を気にすることもなければ、自分の感想を述べることもないわけだから、ネットの読書系サイトとは無縁だろうし、この文章を読むこともないだろう。よって、全然無視無視カタツムリを決め込むことにする。

*1:そもそも教養主義ってナンボのもんよ、という意見の人もいるだろうが、それはそれとして、ここでは方法論に話を絞ることにしよう。

*2:ここで挙げたものが適切な例かどうかについての判断は差し控える。どっちも読んでいないもので……。

*3:逆に、教養のあるなしが面白さに全く関係のない小説もある。もちろん、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではない。

*4:楽天的な書き方をしたが、紹介にもそれなりのテクニックが必要だ。やっぱり石川喬司は偉大だ。