不用意な文章

見出しの中で、未入手だったり入手済みだったりするものは何かといえば、本文中の言葉でいえば「評論家」しか考えられないのだが、「評論家を入手する」ってふつう言うかなぁ、と首を傾げた。もしかしたら、ムック本を企画している出版社や編集プロダクションなら「で、巻頭言書いてくれそうな評論家は?」「入手済みです」というようなやりとりがあるかもしれないけれど、ここで評論家を未入手だったり入手済みだったりするのは、エロゲーとかラノベとかで、これらを「ジャンル」と呼んでいいのかどうかはやや疑問だが、少なくとも自然人でもなければ法人でもなく権利無き社団ですらないただの抽象概念だから、そっちの意味でも違和感がある。もっとも、本文中には「入手」という言葉は出てこないので、わざと意味のずれた言葉を見出しに含ませることによって、読者に違和感を抱かせ、記事への関心を高めたり、記事の印象を強くしたりする戦略的技法なのだと考えることもできる。でずれているだけかもしれないが。
それはさておき、この記事はコメント欄やブクマその他でかなりの反響を呼んでいる。なるべく重複を避けながら*1気になった点を二、三指摘しておこう。

 では、だからと言って、ライトノベル評論が非中高生およびクリエイタ側にしか受け入れられていないと言うと、そうでもないように思います。

ここでは、いったん「ライトノベル評論が非中高生およびクリエイタ側にしか受け入れられていない」という主張を提示した上で、「そうでもない」とひっくり返している。ということは、「ライトノベル評論は読者の大半に受け入れられている」*2という主張を擁護する議論が続くものだと期待してしまう。
ところが、実際にはさにあらず。

 と言いますのも、それはライトノベルに限ったことではないからです。文学にせよ、ミステリにせよ、ライトノベルにせよ、読者の大半に評論が受け入れられているとは思えません。ほとんどの読者は、熱心な本読みではなく、書店に足を伸ばし、気に入った作家の気に入った本を買っているに過ぎないでしょう。評論を求めているのは、特定の作家、もしくは特定のジャンルのファンだけだと思われます。

あれ? 話が変な方向に進んでいる、ような気がする。結局、ライトノベル評論が読者の大半に受け入れられていないということを認めるのか……。それなら、「そうでもないように思います」というのは何だったのか。
続きを読んでみよう。

また、考えてみればライトノベル以外の小説にだって解説がつくのは、ほぼ文庫に限定されます。となれば、解説という文化は、文庫独自のものと捉えた方が自然だと考えられます。

これは、

 引用先ではライトノベル論壇が、一応は存在するけれど、ライトノベルの主な読者層は中高生であり、彼らは解釈・評論を嫌うのではないか、と結んでいます。
 また、実例として巻末に解説がつかないことを挙げています。言われてみれば、富士見ファンタジア文庫および富士見ミステリー文庫の新人賞受賞作を除き、ライトノベルにはめったに解説がつくことがありません。中高生が解釈を嫌うというのも、充分に納得できます。

を受けたものだが、「解説という文化は、文庫独自のもの」という見解を出すことで、いったいどのような話の道筋を示そうとしているのかが、非常にわかりにくい。文庫独自の文化である解説が、文庫で出ているライトノベルに原則としてつかないということは、ライトノベルの特殊性を示すものではないのか。
うーむ。少し腕組みをして考えた。
このあたりの文章で秋山氏が書きたかったことはこんな感じのことだったのではないだろうか。
ライトノベルには原則として解説がつかない。これは非ライトノベルの文庫に比べると特殊なことではある。しかし、非ライトノベルでも文庫以外には解説がつかないことのほうがふつうだ。ということは、解説の有無は、ライトノベルと非ライトノベルの対比そのものを特徴づけるものではない。従って、ライトノベル読者の評論に対する態度をライトノベルに解説がつかないということから推量することには無理がある」
なぜ、こう解釈したかというと、先に引用した箇所の「そうでもないように思います」の「そう」が、単に「ライトノベル評論が非中高生およびクリエイタ側にしか受け入れられていない」という主張を指すのではなくて、「だからと言って、ライトノベル評論が非中高生およびクリエイタ側にしか受け入れられていないと言う」という議論*3を指すのではないかと思ったからだ。もし、そうだとすれば、「そうでもない」という言葉でひっくり返しているのは、主張そのものであるとは限らず、その証拠立てのほうであっても構わないことになる。この読み方ですべてが解決するわけではないが、多少見通しがつきやすくなると思うのだが、如何?
さて、今言及した箇所に比べると非常に瑣末なところだが、ミステリ読みとして見過ごすことができない箇所を一つ取り上げておく。

引用先ではミステリというジャンルには評論家がいると述べていますが、言うまでもなく史上初のミステリとされる『モルグ街の殺人』が発表された当初、まだミステリ評論家はいませんでした。1841年にミステリが生まれ、日本に渡り、様々な変遷を経ていまのミステリ評論家が生まれたのです。

高名なミステリ評論家であるハワード・ヘイクラフトとアントニー・バウチャーはこの流れにどう位置づければいいのだろうか? まさかヘイクラフトもバウチャーもご存じない?

*1:反応のすべてに目を通しているわけではないので、もしかしたら既出かもしれない。

*2:「読者の大半」というフレーズは次に引用する箇所からの先取りだが、ライトノベル読者の大半が中高生であることが前提とされている文脈なので、この点には問題は特にないと思われる。

*3:「議論」という言葉にはいろいろな含みがあるが、ここでは「ある主張とそれを支持する証拠との組」という意味で用いている。