夜には向かない交換殺人

交換殺人には向かない夜 (カッパノベルス)

交換殺人には向かない夜 (カッパノベルス)

「には向かない」対決勃発!

『交換殺人には向かない夜』はリッパー氏が『少女には向かない職業』と同時に買った本だ。タイトルはやや似ているが、ネット上で「これは『には向かない』対決だ!」と煽る人もいない。

だが、あえて言おう。
桜庭一樹東川篤哉、この二人の気鋭作家による「には向かない」対決の火蓋が、いま切って落とされた!
桜庭一樹東川篤哉を併読している人は、もちろんリッパー氏ひとりではないが、あまり多くはないのではないか。ネット上の言及具合を見た印象なので、あまり根拠があるわけではないのだが……。しかし、この二人の作家が全く無縁というわけではない。その証拠に、東川篤哉の前作『館島 (ミステリ・フロンティア)』は、『少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)』と同じ東京創元社ミステリ・フロンティアから出ている。*1
また、このたびの『交換殺人には向かない夜』と『少女には向かない職業』を読み比べてみると、内容的にも共通しているところがあるように思う。『交換殺人には向かない夜』はもちろん交換殺人をテーマとした小説だが、『少女には向かない職業』もストレートな交換殺人ではないものの、同書86ページ11行目の宮乃下静香の台詞からもわかるように、交換殺人によく似た人物配置がなされている。
とはいえ、それだけの類似点なら、ことさら『少女には向かない職業』を引きあいに出すこともなかっただろう。ここでわざわざ二つの作品を並べてみたのは、それがある意味で相互補完的だと感じたからだ。
少女には向かない職業』は確かに傑作だが、すべてにおいて満遍なくポイントを稼ぐ優等生タイプの小説ではない。たとえば、そこには練り込まれた殺人計画やアクロバティックな騙しのテクニックが生む知的興奮がない。*2それらの要素がてんこ盛りになっているのが『交換殺人には向かない夜』なのだ。
逆に『交換殺人には向かない夜』には、犯人の共犯者への信頼と疑念の葛藤という要素がすっぽりと抜けている。たぶん、意図的にそのような要素を排除したのではないかと思われるが、その徹底ぶりはあっぱれなほどだ。他方、『少女には向かない職業』の中盤の緊張感は、まさに『交換殺人には向かない夜』で排除された要素を徹底的に追究することで得られたものだ。
よって、ここに断言する。少女には向かない職業』を読んで感動した読者こそ、『交換殺人には向かない夜』を是非とも読むべきである、と。
以下、『交換殺人には向かない夜』の内容に触れるので、未読の人は注意されたい。

交換殺人とは?

今、ふと疑問に感じたのだが、「交換殺人」というのはどれくらい一般的な言葉のだろう? ミステリ読みなら何はともあれ知っておくべき言葉の一つだと思うし、実際に知っているものだという前提でここまで書いてきたのだが、世の中ミステリ読みばかりではない。交換殺人の歴史を詳述できる知識があるわけではないが、少しだけ説明をしておくことにする。
ある人物Aが別の人物aを殺したいと思っている。だが、実行するとAは真っ先に疑われてしまう。なぜなら、Aがaを殺したいと思っていることは誰の目にも明らかで、かつ、aが死んで得をする人物がAのほかにいないことも明らかだからだ。自殺に見せかけようが事故に見せかけようが、嫌疑を免れることは困難だ。
また、人物Bも人物bを殺そうと考えている。事情はA-aの場合と同じで、Bは犯行に踏み切ることができない。
この状況で、AとBが協調して事に当たることにする。即ち、AはBのかわりにbを殺し、その間Bは別のところで完璧なアリバイを作っておく。また、BはAのかわりにaを殺し、その間Aは完璧なアリバイを作る。A-a,B-bの被害者を交換して、A-b,B-aとすることで、A,Bともに訴追を免れようというものだ。
交換殺人の原理的な構造は以上のとおりだが、実行するのは難しい。AとBが長年親しんだ友人だったりすると、いくらそれぞれの事件にアリバイがあっても、すぐに交換殺人の可能性に気づかれてしまう。AとBはあまり親しくてはならない。全くの赤の他人であることが望ましい。
では、赤の他人だったら大丈夫かといえば、そうではない。まず第一に、互いに無関係なA-a,B-bの対をどうやって認知するか、という問題がある。AかBのどちらか一方が他方の殺意を知っていなければ、交換殺人の計画を立てることができない。第二に、赤の他人の信頼をいかに担保するか、という問題もある。「相互にアリバイを確保しよう」「そうしよう」で話がまとまるのはよほど考えの足りない人かお人好しだけだ。第三に、万が一事件が発覚したときに、素直に(?)自分の殺したい相手を殺すのに比べて格段に刑罰が重くなる、という問題もある。二人がかりで計画的に二人の人物を殺しているのだから、極刑は免れえないだろう。
交換殺人がもつこのような特性は、パズラーより倒叙形式の犯罪心理小説に相性がいい。完璧だと思った計画に穴があって焦ったり、共犯者が裏切るのではないかと疑心暗鬼の状態に陥ったりする犯人の心理を描くだけでサスペンスを盛り上げることができる。倒叙ものは犯人の心理を包み隠さずに書くために、やや興ざめすることがあるが、交換殺人ものだと一方の犯人の心理をブラックボックスにすることができるので、その意味でも緊張感を高めることが可能だ。
そういうわけで、交換殺人を扱ったミステリの名作にはサスペンスものが多い。例外として日本の某作家の最高傑作があり、これは純然たるパズラーだが、当然の事ながらその作品名を挙げることはできない。
では、『交換殺人に向かない夜』はどうか? なんと、これはパズラーだ。冒頭のごく短い「プロローグ」を除けば、警察や探偵など捜査に関わる人物の視点から事件が描かれており、そこには犯人の苦悩も内心の葛藤も全くない。つまり、サスペンス発生装置としての交換殺人の機能を完全に無視しているのだ。
誰が犯人で、事件の真相はどのようなものだったのか。これが、この小説の興味の中心となる。

メルヘンとしての交換殺人、パロディとしての『交換殺人には向かない夜』

かつて天城一は、一言に要約して、密室犯罪はメルヘンです。*3と喝破したが、続けてこう言ってもよかったはずだ。「交換殺人もメルヘンです」と。その証拠に、鉄壁のアリバイという現実的な効果をもたらす手段でありながら、現実に交換殺人が行われた例など皆無だ。
メルヘンとはもともと作り話のことであり、ミステリとは作り話にほかならないのだから、極論すればすべてのミステリがメルヘンだともいえる。ただ、十把一絡げに「ミステリ」といってもいろいろあって、比較的現実っぽいミステリもあれば、メルヘンに徹したミステリもある。『交換殺人には向かない夜』は後者のほうだ。
先に述べたように、この小説では犯人の心理を全く描いていない。そのかわりに、驚くべき偶然や、アンフェアすれすれの技巧、そして解決に至るまで絶対に伏線だと気づかない数々の伏線によって、現実には絶対にあり得ない不思議なメルヘン世界を作り上げている。だが、いま挙げた要素以上にこの小説をメルヘンたらしめているのが、交換殺人というモティーフなのだ。
タイトルから、そしてプロローグから、この小説が交換殺人を扱っていることは読者には明かされている。だが、事件に巻き込まれた探偵や刑事達にはその事はわからない。そこで、読者は作中人物よりも一歩優位に立ち、その右往左往ぶりを楽しむことができる。つまり、「志村! うしろ、うしろ!」的な面白さだ。だが、それで終わってしまってはただのコメディ。ただのコメディが悪いわけではないが、それはミステリではない。『交換殺人には向かない夜』はミステリなのだから、読者よりもさらに高い場所から、作者がその試行錯誤ぶりを楽しんでいるに違いないのだ。それでは悔しいので、読者は作者の鼻を明かすべく、推理に励むことになる。
「実はこの事件は交換殺人だったのです」では読者にとっては意外でも何でもないから、きっと何か裏があるはず。すぐに思いつくのは、システムの複雑化だ。たとえば、関係者の対が3つあるというのはどうか? この小説には、

  • 鵜飼・朱美
  • 流平・さくら
  • 刑事たち

という3つのパートがある*4ので、A-b,B-c,C-aという構図が考えられる。
でも、これは前例があるしなぁ。
続いて考えたのが、何らかのアクシデントにより、基本パターンから逸脱したというもの。逸脱の仕方はさまざまなので典型例を挙げることはできないが、これもありがちな手だ。
そうやっていろいろ考えながら読んでいくと、217ページ下段に至って、飛び上がるほど驚くことになる。
しまった!
この驚きの中身は人それぞれだろう。ミステリを読み始めて間もない人なら、「こんな手があったのか!」という驚きだろうし、ある程度ミステリを読み込んだ人なら「こんな手がまだ使えたのか!」という驚きかもしれない。
そう、東川篤哉は初心者とマニアの双方を騙すという奇蹟をやってのけたのだ。
「もうトリックは出つくした、ミステリの仕掛けは枯渇した」と言われ続けながらも、数年に一度、凄いミステリがひょっと出てくることがある。たとえば、『死者の輪舞 (ミステリ名作館)』がそうだ。未読の人のために詳しい説明は省くが、『死者の輪舞』と『交換殺人には向かない夜』はどちらもパロディ色の強い作品であり、しかも特定のミステリ作品やシリーズのパロディというわれではなく、ミステリというジャンルそのもののパロディという点でも共通している。
これだけだと何のことだかわからない人も多いだろうが、これ以上だらだらと書くつもりはない。最後は、小林信彦の言葉*5で締めることにしよう。


推理小説のパロディは推理小説になる宿命にあるし、また、そうならなければおかしい〉

*1:ということは、桜庭一樹東川篤哉を併読しているはずの人物がもう一人いるということでもある。ただし、その人物とリッパー氏が同一人物ではないという確証を挙げることはできない。

*2:もちろん、これは『少女には向かない職業』の欠点ではないし、そのような要素を盛り込むべきだったと主張したいわけでもない。それは「ないものねだり」に過ぎない。さらにいうなら、仮にそのような要素が『少女には向かない職業』に盛り込まれていたなら小説そのものが破綻していただろうから、「ないものねだり」の中でも特に悪質な部類に属する。

*3:天城一の密室犯罪学教程』153ページ。

*4:この小説に目次がないのは残念だ。この小説の場面構成は最初から明示しておいたほうが効果的だったように思う。

*5:正確には『超人探偵 (新潮文庫)』の主人公、神野推理の言葉だが、同書のあとがきで作者自身がこの言葉を敷衍しているので、作者の持論を登場人物に言わせたものに違いない。