5分前には存在しなかったかもしれない世界にて

本文とは関係ないことだが、この本のカバーに一箇所誤植がある。「岩波新書から」という見出しで既刊本のうち関連する内容の本を何冊か紹介しているのだが、そこで『術語集』が『述語集』と書かれている。本文でやたらと「述語」という言葉が出てくるからそれに合わせた、ということはなく単純ミスに違いない。
さて、この本の内容については、著者のサイト目次が掲載されていて、それを見ればだいたいの感じは掴めるだろうし、素人が特にあれこれ言うこともない。おしまい。
……というのはあまりにも素っ気ないので、個人的に非常に印象深かった箇所を紹介しておこう。

二人の人物が同じ言語を共有できない、いや、同一人物ですら時刻が違えば同じ語句で同じ意味を表現できない。このラッセルの言語観は、まことにグロテスクではある。この私的言語に結晶するラッセル哲学を評して、飯田隆は、「言語の社会的性格の無視」と述べた(『言語哲学大全I』二一八頁)。…(略)…しかしこの飯田の評価は、ラッセル哲学のごく表面しか、いや表面すら見ていないと言うべきだろう。*1
おお、三浦節だ! いいねえ。こうじゃなくっちゃ。

飯田隆の本に見られた無論証の私的言語批判は、現代思想全般が帯びる悪しき偏向を図らずも代表しているので、やや突っ込んでおく価値があろう。その偏向とは、社会性や歴史性というものを主題化しない理論はそのかぎりで無価値とみなせ、という暗黙のルールだ。
社会性を重視するあまり、還元主義的学問を論証抜きで否定するのは、政治的イデオロギー優先のポストモダニズムマルクス主義フェミニズムなど多くの現代思想にありがちな態度である。…(略)…*2
なんと、「論理学で武装した重戦車」とまで呼ばれた人が、悪しき現代思想の代表にされてしまった!
もしかすると背景に個人的な確執があるのかもしれないけれど、そのような生臭い話を抜きにすれば、ここには哲学の面白さがよく表れている。それは、一見にして明らかだと思われることが見方を変えれば全く別物に見えるという面白さだ。*3
なんだか横道にそれた紹介の仕方になってしまったが、それはそれとしてお薦めの一冊だ。文章は平易でわかりやすく書かれているので、特に論理学や数学の知識がなくても読めるはず。

*1:ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学』146ページ〜147ページ。

*2:同書149ページ。

*3:ごく個人的な話になってしまうが、ラッセルの言語論を全然知らないときに『名指しと必然性』を読んでなんとなく「フレーゲ&ラッセル=反直接指示説」という思いこみを抱き、あとでラッセルが直接指示説をとっていることを知って驚いたことがある。