マイケル・サンデルと「カレー味のウンコ」の哲学

予め断っておくが、この小文はハーバード大学マイケル・サンデル教授とはほとんど関係がない。ではなぜこのような見出しにしたのかといえば、第一に人目を惹くためであり、第二にウケ狙いであり、第三以降の理由は忘れてしまった。
とはいえ、サンデル教授と全く何の関係もないというわけではない。実は、この文章を書くきっかけは、昨日NHKで放映されていたマイケル・サンデル 究極の選択「お金で買えるもの買えないもの」を見たことだった。この「マイケル・サンデル 究極の選択」というのは、どうやら昨年から放映されているシリーズものらしいが、見るのは初めてだった。
なかなか面白い番組だったのだが、一つ「あれっ?」と思う話題があった。

またアメリカでは、消防隊も民営化され始めた。その挙げ句、家が火事になっても会員ではないからという理由で消火されず、放置されたまま家と財産を失うという事態も起こっている。

番組の中でも消防隊が民営化されたらどうなるか、という文脈で取り上げられていたけれど、事件そのものは民営化に伴って発生したものではなく、事例とテーマがずれているなぁと思った。
この事件は、[民家で火災発生、でも消防士は見てるだけ…驚くべき理由とは] - MSN産経ニュースで知ったのだけど、記事を読む限りでは消防隊が民営化されているかどうかは関係なさそうだ。アメリカの自治制度の問題だろう。
まあ、それはそれとして。
この番組の終了間際に、Twitterで次のようにつぶやいた。

ある世代の人にとっては説明不要だろうが、別の世代の人、特に平成生まれの人には説明なしでは意味不明だろう。だが、いちいち説明するのは面倒なので、その代わりに引用文ですませておく。

どっちを選ぶ 究極の選択

(1988年10月7日〜1989年3月)

「どっちを選ぶ? カレー味のうんことうんこ味のカレー」など、どっちを選んでも問題が生じる選択肢の二択問題を出題するコーナー。

ウィキペディアにはこの程度の説明しかないが、アンサイクロペディアには究極の選択という項目がある。また、その中でも最もよく知られた問題について、カレーとウンコ問題という別項が立てられている。
前置きが長くなったが、今回取り上げるのはこの「カレーとウンコ問題」である。以下、省略して「カレウン問題」と呼ぶことにしよう。
サンデル教授の番組ではカレウン問題を取り上げていないので、最初に断ったとおり、この文章はサンデル教授とはほとんど関係がない。しかし、矢継ぎ早に疑問を投げかけておいて、明快な回答は与えないという点ではサンデル的であるかもしれない。もしかしたら、それ以外にも何か共通点が見出されるかもしれないが、あまり気にしないほうがいいだろう。
さて、カレウン問題は、言うまでもなく哲学的問題だ。そして哲学的問題の多くがそうであるのと同様に、一見すると何が問題であるのかがよくわからない。幸い、アンサイクロペディアで重要な論点が提起されているので、まずはそれをとっかかりにすることにしよう。

しかしながら、どうしてこの質問を振られた時、われわれ人間は悩む事になるのだろうか?

【略】

考えるに『カレー味のうんこと、うんこ味のカレー、食べるならどっち?』というのが「究極の選択」として成立するには、うんこというのがものすごく不味いものであって、しかもその事をよく知っているというのが、大前提となる。本物のうんこを口にするとのどっちがいいのか悩むくらい、うんこの味のするものを口にするのは不愉快な事なのである。

問題が問題として成立するためにはなんらかの前提条件がある。何が前提となっているのかを考察し、明らかにするのは非常に大切なことだ。そして、これはすぐれて哲学的活動といえる。ただ、残念なことに、今紹介した考察では、カレウン問題のもう一つの大きな前提が見過ごされている。それは、カレーは不味いものではないということだ。もし、カレーがうんこ以上に不味いものだとすれば、カレウン問題は成立しない。
カレーは不味いものではないというのは当たり前のことだと思う人も多いだろう。だが、カレーが死ぬほど嫌いで、その匂い、いや、臭いを嗅いだだけで吐き気を催す人もいる。そのような人を無視することによってこのカレウン問題が成立しているのだとすれば、ここに社会的差別の構造が見えてこないだろうか? また、カレウン問題が提起されるとき、カレーが大嫌いな人と同様にスカトロジストも排除されていることに留意する必要があるだろう。
カレウン問題に見られる社会的差別、というのはこれ自体が探究に値するテーマではあるが、カレウン問題はそれ以外にもより哲学的に興味深い論点を含んでいる。
我々がカレウン問題を了解することができるためには、少なくとも「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」という言語表現の意味を理解できるのでなければならない。だが、おそらくカレー味のうんこやうんこ味のカレーを実際に見たことのある人はいないはずだ。では、いかにして、これらの言語表現の理解は可能となるのだろうか?
ひとつの考え方はこうだ。カレー味のうんこやうんこ味のカレーを実際に見たことがなくても、それらのレシピを知っているなら「カレー味のうんこ」「うんこ味のカレー」という表現の意味を理解できる。そして、人はカレウン問題に立ち向かうことができるのだ、という考え方だ。だが、それはどのようなレシピなのだろうか?
カレー味のうんこを作るためには、うんこに適量のカレー粉ないしカレールゥを加えればいい、と考えたくなるかもしれない。うんこ味のカレーの場合はその逆で、カレーに適量のうんこを加えることになる。だが、これではカレー味のうんことうんこ味のカレーは単にカレーとうんこの配分比率の違いしかないのではないだろうか? このようなやり方では、カレー味のうんこでもうんこ味のカレーでもなく、カレーとうんこの混合物――それはカレー味とうんこ味が入り混じったものであるだろう――でしかないのではないだろうか?
「カレー味のうんこ」ないし「うんこ味のカレー」という言語表現を理解するときに我々がなしていることはレシピを想像することではなくて、概念操作の類ではないのか。実際にそれらの料理(?)がいかにして作りえるのかという具体的な手続きとは無関係に、カレーからカレー味を、うんこからうんこ味をそれぞれ切り離したうえで交換するという抽象的な操作を経て、カレー味のうんことうんこ味のカレーが構成されるのだ。だから、カレー味のうんこやうこ味のカレーが実在しなくても、カレウン問題の了解には支障がない。カレウン問題の十全な理解のために必要とされているのは、実体から属性を切り離して自由に操作できるという知的能力であり、料理の才能や技術は不要なのだ。
だが、待ってほしい。カレーからカレー味を切り離してうんこに付与するということ、または、うこからうんこ味を切り離してカレーに付与するということは、一体どういうことなのだろうか? 現実には存在しないとしても、現実世界とは異なる、どこか別の可能世界には、カレー味のうんこやうんこ味のカレーがあるというのだろうか? もしかすると、カレー味のうんこはあり得るかもしれない。いかなる味であろうとも固形の排泄物でありさえすればうんこはうんこだ、と考えるなら。だが、いかなる味であってもカレーはカレーだ、と強弁することはできるだろうか? カレーはカレー味であることによってカレーであるのではないか? カレーという実体からカレー味という属性を切り離すことは不可能ではないか? 仮にそれが可能だとして、カレー味を切り離されて、他の味、たとえばうんこ味を付与されたそれは、もはやカレーとは別ものではないだろうか?
カレウン問題は、「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」という、字面の上では対称性をもつ事物についての設問だった。だが、カレーはもともと食べ物であり、食べ物とその味との間には密接な関係があるため、一般には食べ物ではないというみなされるうんことは事情が異なるように思われる。この考えが正しいとすれば、カレウン問題の対称性は破れることになるだろう。
とはいえ、カレーとうんこの非対称性という主張には異論もあり得るところだ。先に少しだけ言及したスカトロジストの立場ならどうか。また、食べ物にのみ味との密接な関係を認めることに異議があるかもしれない。かくして、カレウン問題は関連するさまざまな論点を巻き込みつつ、複雑化していくことになる。
予め断っておいたとおり、この文章では明快な回答を用意してはいない。読者諸賢がそれぞれ考察を深めていってほしい。とはいえ、「後は自分で勝手に考えろ」と投げ出すのは不親切なので、考えるヒントになるかもしれない参考図書を1冊紹介しておく。

分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

なお、誤解のないように付け加えておくと、この本ではカレウン問題は取り上げられていない。だが、この本を読めば、なぜ参考図書として紹介したのかは容易に理解できることだろう。いや、理解できない人がいるかもしれないが、それはまあ仕方ない。