功利主義は誤解される

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

最近、ちくま新書から主として英米で展開された哲学に関する入門書が立て続けに出版されている。
分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

科学哲学講義 (ちくま新書)

科学哲学講義 (ちくま新書)

この2冊は両方とも買った。『分析哲学講義』は最後まで読んだが『科学哲学講義』のほうは途中で中断したままとなっている。そこに『功利主義入門』が出たので、さてどうしようかと迷って手を出さずにいたのだが、先日とあるきっかけで読むことになった。
その「とあるきっかけ」というのは次のとおり。
『プラ・バロック』の感想文を書いたあとで、先行するネット上の感想文を読んでいたところ、次のような文章に出会った。

高度経済成長の時代が過去のものとなっている未来の空気は現在にも通じます。作中に蔓延するインダストリアルな空気。それは、市場経済を支配する功利主義の哲学によって導かれる効用主義的な価値観に基づくものだと思われます。すなわち、役に立つか立たないかによって図られる人生観です。そうした価値観は個々の人権を希薄にして、ひいては人をモノとして扱うことにつながります。

市場経済を支配する功利主義の哲学によって導かれる効用主義的な価値観」というフレーズ*1がよくわからず、首を傾げた。市場経済功利主義が無関係だということはないだろうが、功利主義市場経済を支配している、というほど関係が深いものだろうか? むしろ市場経済を支配しているのは自由主義ではないだろうか?
また、功利主義が「人をモノとして扱うことにつなが」るというのも、よくわからない。功利主義は個々の人権を最優先とする思想ではないから、その意味では「個々の人権を希薄にして」いると言えなくもないが、別に功利主義は人をモノ扱いしないし、逆に人をモノ扱いしてしまうと功利主義の有名なテーゼ「最大多数の最大幸福」が成り立たなくなってしまう。
この短い文章の中にはまだ他にも疑問点がある*2のだが、細かい話は抜きにしよう。おそらく、先ほど引用した文章には何らかの誤解が含まれているように思われる。だが、その誤解は功利主義に対する誤解なのか、それとも功利主義」という語に対する誤解なのかがわからなかった。
その後、同じサイト内で検索してみると、ウィザーズ・ブレインと臓器くじ - 三軒茶屋 別館『これからの正義の話をしよっ☆』(早矢塚かつや/一迅社文庫) - 三軒茶屋 別館でも「功利主義」という言葉が使われていた。それらの用法をみると、少なくとも古典的な功利主義について理解した上で書かれているのは明らかなので、言葉の上の間違い*3ではないことがわかった。それで、この件はひとまず落着した。
それはそうとして、わが身を振り返って功利主義についてどれほどのことを知っているのか、と考えてみると、かなり危うい。「最初にベンサム*4がいて、幸福を快楽と同一視した上で『最大多数の最大幸福』を標榜したが、快楽の質を問うことはなかった。次にミルが出て『太った豚よりも……』という有名な言葉*5で快楽の質を問うた。20世紀に入ると、個々の行為の結果ではなくて、行為規範となるルールのよしあしに着目した規則功利主義が生まれた。一方、幸福の捉え方についても単に快楽や苦痛の不在ではなく、欲求が充足されるかどうかを指標とする考え方も生まれた。また、他方では、『最大多数』の中に人間だけではなく、ある種の動物も含める考え方も出てきて、いわゆる『アニマルライツ』論に繋がっていく」というのが、『功利主義入門』を読む前に抱いていた功利主義についてのイメージの概略だ。
他人の書いた文章にケチをつける前に、まずは自分の知識や理解を再点検してみる必要がある。そのためには、とりあえず簡単な入門書を読んでみて、既存の知識に歪みがあるかどうかを調べてみるのが近道だ。その上で、より詳しく検討する必要があれば専門書を読むことにしよう。それが、『功利主義入門』を読むことになった「とあるきっかけ」だ。長くなった。
で、読んでみた。
副題に「はじめての倫理学」と書かれているように、この本は単に功利主義という一つの道徳説についての入門書であるばかりではなく、倫理学の初心者に対する入門書でもある。従って、非常にわかりやすく丁寧に書かれている。そのような本に対して余計なコメントは不要というものだろう。よって、最も印象に残った一節*6を引くことでコメントに代えたい。
「わら人形攻撃(非呪術)」と題した節*7

一般に、功利主義の批判者は、功利主義を「行為功利主義」かつ「直接功利主義」、つまりフェヌロン大司教の例におけるゴドウィンのような立場を念頭に批判することが多い。だが、それではわら人形攻撃になる可能性が高いのだ。わら人形攻撃とは、わら人形に釘を指すと本人が傷を負うという呪術的な攻撃の仕方を指すのではなく、本人を批判しているつもりで自分がこしらえた全くの別物(わら人形)を批判している事態を指す。つまり、相手の議論を戯画化するあまり、実は誰も採用していないような立場を批判するということだ。功利主義は誤解されることが多い立場なので、功利主義に対する批判は往々にしてこのわら人形攻撃になってしまっている。

「フェヌロン大司教の例におけるゴドウィン」では何のことかわからないだろうが、そのくだりまで引用するのは面倒なので割愛する。このゴドウィンという人物はメアリ・シェリーの父親なのだが、凄く面白そうな人だったらしい。ただし、間違っても友達にしたくはないような類の。特に功利主義にも倫理学にも興味がなくても、ゴドウィンのエピソードだけでも読んで損はないだろうと思う。
それはさておき、この本の丁寧さは「わら人形攻撃」という言葉の説明でわざわざ呪いのわら人形のことではないと断っていることからもよくわかる。「そんなこと言われなくてもわかってるよ!」とツッコミを入れたくなるかもしれないが、「わら人形」といえば丑の刻参りを連想する人のほうが多いのは事実で、そのような人にもなるべく誤解がないように説明しようとすればこのような配慮が必要になるのだろう。
全然関係ないが、「わら人形」といえば、古いミステリファンならポーストの『アブナー伯父の事件簿』に収録されている「藁人形」という短篇を連想するだろう。これは、ミステリで用いられる、ある種のトリックの代名詞ともなっていたのだが、術語としての「藁人形」は廃れてしまったようだ。さらに脱線するが、昔、何かの本で「チェスタトンの藁人形」という表現を見かけたことがあるのだが、それが何の本だったのか忘れてしまった。ポーストの「藁人形」と似た趣向の作品がチェスタトンのブラウン神父ものにもあるので、両者を混同して生まれたフレーズだと思うが詳細不明。ご存知の方はぜひご教示ください!

*1:これは、「『市場経済を支配する功利主義の哲学』によって導かれる効用主義的な価値観」と「市場経済を支配する『功利主義の哲学によって導かれる効用主義的な価値観』」の2通りの読みが可能だが、どちらに解釈しても実質的には大して違わないように思われる。本文では前者の読みに従うことにした。

*2:たとえば、「功利主義」も「効用主義」も「utilitarianism」の訳語だとすれば同義になるはずだが、前者が後者を導くのだとすれば同義ではない。調べてみると『合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究』では「効用主義」を「welfarism」の訳語として用いているらしいが未読。経済的判断と道徳哲学  A. セン『倫理学と経済学』【PDF】で知った。しかし、件の引用文中の「効用主義」がそのような意味で用いられているのかどうかは定かではない。

*3:たとえば「利己主義」と混同しているというような。

*4:功利主義入門』では「ベンタム」と表記されているが、ここではより一般的だと思われる「ベンサム」を採用した。

*5:しばしば「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ」と端折って引用されるが、元はもうちょっと長い。

*6:この文章を書いたあとで、はてな匿名ダイアリーに書かれた『功利主義入門』の感想文を読んだら、やはり同じ箇所に言及していた。匿名なのでどこの誰かは知らないが、何だか心強くなった。

*7:83ページから85ページ。以下の引用はその中で83ページの最後の2行と84ページ6行目まで。なお、「わら人形に釘を指す」は「わら人形に釘を刺す」の誤植だと思われるが、原文のままとした。