「「「「「「「自然主義の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬

左右の括弧の数が一致していないのは仕様です。


I「君が三次元に興味がないのは正しくない」
僕「どうしてですか?」
I「子供が産めないじゃないか。生物は子孫を残すものだ」
僕「でもそれは自然主義の誤謬ですよ」
昔から誤謬だと言われつつも自然主義に惹かれる人は後を絶たない。
その理由の一つは、曖昧模糊として根拠の不明な倫理に確固たる自然史という根拠が与えられるからだろう。もちろん、倫理は全く無根拠だとか、根拠づけの必要がないほど自明なものだとか、そういった考え方の人にとっては、自然主義はさほど魅力のある考え方ではない。しかし、倫理には何となく根拠がありそうだと思いつつも、神も社会契約も信用しない人にとって、自然主義以上にもっともな考え方はあるだろうか? そのような人に対して自然主義の誤謬を指摘したところであまり効果はないだろう。
ところで、上の引用文中の論証を整理してみよう。

  1. 生物は子孫を残すものだ。
  2. 従って、生物が子孫を残さないことは正しくない。
  3. 三次元に興味がなければ、子孫が残せない。
  4. 従って、三次元に興味がないのは正しくない。

細かくいえば、まだいくつかのステップを追加することもできるが、まあ、その辺りは直観的に理解できているものとして省略する。
上の論証で自然主義の誤謬だと思われるのは1から2への移行だ。だが、「生物は子孫を残すものだ」という言明が、生物に関する端的な事実を指しているのでなく、当為を内包した主張*1だとすれば、自然主義の誤謬には当たらないだろう。*2
むしろ、問題となるのは2と3から4を導出するステップではないだろうか? 三次元に興味がなくても子孫が残せるかもしれない、という反論も当然考えられるところだが、ここで指摘したいのはそのことではない。2と3は主語が異なるということだ。
3ではあえて主語を省略したが、ここに2と同じ「生物が」を補うとどうなるか。
「生物が三次元に興味がなければ、子孫が残せない。」
そりゃまあ、確かにそうだろうけれど、これは引用もとで言われたことではない。そこでの主語は「君が」だった。一般化するとしてもせいぜい「誰であれ」くらいだろう。要するに個体が話題となっているのだから、1や2とはレベルの違う話なのだ。
よって、この推論には自然主義の誤謬とは別に分割の誤謬が含まれている。
……と分析してみたのだが、さて、哲学嫌いの人に「分割の誤謬」という言葉を理解してもらえるものだろうか?

*1:「ものだ」は「である」と「であるべきだ」の間の言い回しで、場合によっては義務の婉曲表現としても用いられる。法律用語の「ものとする」も参照のこと。

*2:そのかわりに論点先取の誹りを受けることになるかもしれないが。