萌えとは究極的関心と無干渉不作為との矛盾に満ちた統合である

また、妙にマニアックで読者を選ぶネタだなぁ。
個人的には「言語行為論」のほうに馴染んでいるので「発話行為論」という訳語には若干違和感がある*1が、それはそれとして、根本的なところで一つ疑問を呈しておきたい。
萌えを単なる要素として静的に捉える従来の通念に抗するのはいいとして、そのことから、なぜ萌えが行為であるといえるのか?


萌えは動詞である。萌えは私の行為である。”私”が”何か”に”萌える”のだ。いずれの要素の欠落も、萌えの本質を損なうことになる。”何か”のみを取り出し解析して、満足してはならない。”萌え”を目的語化して扱ってはならない。
ここには一つの見逃せない洞察*2がある。それは、萌えは「”私”が”何か”に”萌える”」という機構のもとで成立する事柄であるということだ。もし、萌えを属性*3とみなすなら「”私”が”何か”に”萌える”」の構造は捉え損なわれることになるだろう。
だが、ここから導かれるのは、萌えが属性ではなく関係であるということであり、萌えが行為であるということが直ちに帰結するわけではない。もちろん、すべての行為は関係だ。しかし、すべての関係が行為であるわけではない。
したがって、ここには何らかの誤謬ないし飛躍がある。もし誤謬であるならいったん萌え行為論から退却して、萌え関係についての洞察を手がかりに態勢を立て直すべきだろうし、もし飛躍であるならこの仮説を擁護するさらなる論証が必要だ。
……ここまで書いて既視感にとらわれた。ああ、これだこれ。ひゃー、Ryleですか。こっぱずかしい。

*1:「言語」より「発話」のほうが原語の「Speech」に忠実だが、話し言葉だけでなく書き言葉も射程に入れていることを踏まえれば「言語」のほうが適切だと思われる。ただし、どちらも間違いというわけではない。例外もあるが、哲学畑の人は「言語行為論」を、言語学畑の人は「発話行為論」を用いる傾向があるようだ。

*2:なお、この洞察の萌芽は、認知科学徒GPY - Moe Act: Introduction (萌え行為論: 序文)に先立つ論考、認知科学徒GPY - 限界妄想書評 『マキゾエホリック Case1:転校生という名の記号』においてみられる。

*3:現在の「萌え属性」という言葉の用法には多少の混乱が見られる。この言葉は”私”の側の属性を指す場合にも、”何か”の側の属性を指す場合にも用いられる。だが、今はこの多義性について深入りする必要はない。