人工妊娠中絶問題における「見えない人」

"Nobody's been in here, sir, you can take it from me," said the official, with beaming authority.

"Then I wonder what that is?" said the priest, and stared at the ground blankly like a fish.

The others all looked down also; and Flambeau used a fierce exclamation and a French gesture. For it was unquestionably true that down the middle of the entrance guarded by the man in gold lace, actually between the arrogant, stretched legs of that colossus, ran a stringy pattern of grey footprints stamped upon the white snow.

"God!" cried Angus involuntarily, "the Invisible Man!"

身体髪膚受之父母不敢毀傷孝之始也 - 一本足の蛸に続き、マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeに対する批判的コメントを書く。
が、その前に自分自身の基本的な考えを簡単に述べておくことにしよう。

  1. 中絶*1についてこれまで深く考えたこともなければ専門書を読んだこともないので、この問題領域に固有の論点について責任をもって語ることはできない。ただし、無責任な思いつきでいうなら、中絶した女性を殺人者呼ばわりして非難するのはよくないのではないかと思う。その点では海燕氏と意見を同じくする。
  2. 一方、中絶が女性の権利であるという主張に対しては、今のところ賛否を差し控えたい。仮に、中絶が当然の権利に基づく行為でなかったとしても、それでもやはり直ちに道徳的非難に値するということにはならないのではないかと思う。だが、これも無責任な思いつきの域を出ない。
  3. 中絶権を認めるとしても、それが自分の身体に対する権利からの帰結であるということは認めない。この点で海燕氏と意見を異にする。

というわけで、1と2は抜きにして、3をもとにあれこれ書いてみる。かなり脱線が多い文章だと断ったうえで、早速、本題に入ることにしよう。
マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeの議論には、よく言えば互いに異なる視点の緊張関係*2が見られる。
海燕氏は一方で、中絶が妊婦自身の問題であって、他者が介入すべきでないことを強調する*3

なぜなら、中絶という行為に、消そうとしても消せない「子殺し」の苦味が付きまとうとしても、その苦味を引き受けるべき主体は、やはり妊婦そのひとしかいないからである。

それは他ならぬ妊婦の精神と肉体の問題なのだ。この問題に対して、法も、国家も、恋人も、立ち入るべきではない。否、立ち入ることを許されない。

妊娠を中絶するとき、妊婦には葛藤がある。「子殺し」であるという苦い、正当化しきれぬ想いがある。しかし、それでもなお、その苦味と向き合うべきは、その妊婦以外にいないということ。

それは他者が介入するべき問題ではない。その妊婦自身の、「わたし」の問題だからである。この「わたし」とは、腹に宿した胎児をもふくむ概念である。

ここに見られる強調は、おそらくネットで繰り広げられている反中絶論や、それに基づく中絶者への非難攻撃に対する異議申し立てという実践的な理由に基づくものだろう。
仮に、中絶が純粋に妊婦のみの問題であり、他者の介入が許されないのであれば、なるほど妊婦の決断を他人があれこれ言うのは決して正当化できないことだろう。それはそれで理屈としては成り立っている。
だが、海燕氏はだめ押しのつもりなのか、さらに続けて次のようなことも言う*4

そして、その社会とは我々ひとりひとりから構成されるものなのである。そうだとすれば、中絶の問題は我々にとって決して他人事とはいえない。我々自身の問題なのである

それにもかかわらず、ひとり安全な地平に立ち、無関係なような顔をして、ただでさえきずついた女性を「人殺し!」と責める、その行為は卑劣ではないだろうか。ぼくは卑劣だと思うのですよ。

【略】

その意味で、その連続性を断ち切る行為は、悲劇である。安全な地平から降り立ち、悩み、惑いながら、その悲劇と向き合っていく覚悟がぼくたちに求められている

中絶が妊婦本人のみの問題であるのなら、それは妊婦以外の人にとっては「他人事」なのではないか? この問題に他者が立ち入る余地がないなら、そもそも「安全な地平」などというものもなく、単に居場所がないということではないか? 中絶がいかに悲劇であっても、「その苦味と向き合うべきは、その妊婦以外にいない」のだから、「ぼくたち」はその悲劇と向き合っていく覚悟など求められていないのではないか?
これはどうにも具合が悪い。たとえば、次のような両刀論法だったなら、もっとすんなりと腑に落ちたことだろう。

  • 中絶は妊婦本人のみの問題であるか、社会全体の問題であるか、どちらかだ。
    • もし中絶が妊婦本人のみの問題であるなら、他者はそれに口を挟むことはできない。従って、中絶した妊婦への非難は正当化できない。
    • もし中絶が社会全体の問題であるなら、妊婦以外の人も責任を負うべきである。従って、中絶した妊婦への非難は正当化できない。
  • ゆえに、中絶した妊婦への非難は正当化できない。

あるいは、単に中絶の社会的側面のみから論陣を張ってもよかっただろう。ネット上の誹謗中傷への反論のみを意図していたのなら、おそらくそれだけでも十分な議論になったはずだ。
しかし、実際には、海燕氏は妊婦の自己決定権を主軸とした議論を展開し、最後に中絶の社会性に基づく補助的議論を附加するという方法をとった。しかも、「マザー・テレサは間違えている。」などという、無用に物議を醸すだけの挑発的な見出しまでつけて。
海燕氏の議論で妊婦の自己決定権が基軸になっているのは、やはり「自分の肉体は自分のものである」という考えがおおもとにあったからではないかと思われる。マザー・テレサはたぶんそんな考え方は支持しなかっただろうから、海燕氏はマザー・テレサを仮想敵としたのだろう*5
だが、「自分の肉体は自分のものである」というのは、自分の身体の所有権ないし支配権の主張として読むならば、決して当然でもなければ第一の権利でもない。カトリシズムや儒教道徳を持ち出すまでもない。我々はそのような生を生きてはいない、という端的な事実から明らかだ。右手を上げるという行為を、「私はこれから私がもつ私の身体所有権に基づき右手を上げる。右手よ、支配者の命に従い上がれ!」などと考えながら行う人がどこにいるというのか。心身は日常生活においては一体であり、右手は「私のもの」ではなく「私の一部」なのだ。
もっとも、デカルト心身二元論*6の影響を多分に受けている現代人には、もしかしたら海燕氏の議論のほうがもっともだと思われるかもしれない。そこで、一歩譲って、自分の肉体は自分のものであり、基本的には自分の肉体を自由を自分の意志で操作できるものだということを認めるとしよう。だが、それを認めたとしても、「右手を上げる」*7ということと「胎児を中絶する」ということを同列に扱うことはできない。
ここでようやく見出しに掲げた「見えない人」の話を行うことができる。実は、これはもともと死刑問題を考えているときに思いついたことだ。多くの人が「死刑は殺人か、否か?」と問い、国家の権限、死刑囚の権利、殺人被害者の遺族の感情などについて思いを巡らせるが、死刑について非常に重要な役割を果たす人のことをしばしば等閑視する*8。同様に、妊婦や胎児の権利、恋人の思い、中絶に関する法制度を司る国家の権能などについては考慮に入れながらも、海燕氏の視野にはある種の人が入っていないのではないか、と懸念する。
再掲する。

それは他ならぬ妊婦の精神と肉体の問題なのだ。この問題に対して、法も、国家も、恋人も、立ち入るべきではない。否、立ち入ることを許されない。

「この部屋には法も国家も恋人も、誰一人立ち入ってはいません」と、手術室の前で見張りをする海燕氏は言うだろう。だが、その前には点々と足跡がついているのだ。「見えない人だ!」と驚くこともない。いくら「自分の内臓を自分で切り取って何が悪い」と言おうとも、自分の中絶手術を自分で行う剛の者など滅多にいないのだから。
中絶の場における「見えない人」は決して「スマイスの物言わぬ召使い」*9の如き機械仕掛けの自動人形ではない。自分で考え、自分で判断し、自分で行為する、紛れもない人間だ。そして、葛藤したり、悲劇に苦しんだりすることもあることだろう*10
中絶問題を理論的に考察する場面では、「見えない人」にあえて触れる必要はないかもしれない。だが、「見えない人」に直接言及しないとしても、後で「見えない人」を可視化する際に位置づける場所を予め確保しておかなくてはならないだろう*11。だが、海燕氏の議論には「見えない人」の居場所がないように思われるのだ。絶対不可侵な自己決定権という観念には、やはり無理があるのではないか。
本来ならば、マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeの大半を占めるパーソン論に関する考察についても検討すべきところだが、最初に述べたとおり、この問題領域についての専門的知識がほとんどないのでそこまで踏み込むことはできなかった*12。幸い、この点については既に妊娠中絶・パーソン論など - uumin3の日記*13という優れた批評があり、さらにそのコメント欄をみると地下生活者の手遊びの中の人もこの問題を取り上げる*14気があるそうなので素人が口出しする必要もないだろう。よって斜め上からのコメントに終始することとなった次第。
最後に、はてなブックマーク - マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeから意表を衝くコメントを紹介する。

kentultra1 これはひどい 人文系にありがちな、破綻した論理を曖昧な言葉と文章で煙に巻くアホ文。ブコメはさすがに釣られてないのが多いが、シンパシーだけでまともに読まない馬鹿も/ベト氏は分離前のドク氏を殺害する権利があった訳ねw 2009/03/20

うぉぉ!

参考
ベトちゃんドクちゃん - Wikipedia

*1:人工妊娠中絶のこと。以下、この文章では単に「中絶」といえば人工妊娠中絶のことを指すことにする。従って、たとえばバッハの『フーガの技法』や江戸川乱歩あるいは小栗虫太郎の『悪霊』などの中絶は今回の議論の射程外となるので注意されたい。

*2:わるく言えば単なる矛盾。

*3:ただし、以下の強調タグづけは引用者による。

*4:これも強調タグづけは引用者による。

*5:もし孔子が中絶について語っていたなら、海燕氏は「孔子は間違っている。」とも言ったかもしれない。危ないところだった。

*6:ここで不用意にデカルトの名前を出したのはまずかったかもしれない。『科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか』によれば、デカルトは日常生活における心身合一を説いた哲学者だったそうなので。

*7:海燕氏自身は「右腕を使う権利」という表現を用いている。

*8:ただし、「しばしば」ではあっても「常に」ではない。

*9:The Invisible Man参照。ネットで読める日本語訳が見つからなかったので、かわりにここにリンクしておく。ちなみに、「見えない人」が「見えない人」化するのは、社会的要因のほか言語的要因もある。このあたりを参照されたい。

*10:もっとも、いつもいつも葛藤してはいられないというのが現状だろうし、それを求めるべきでもないだろう。全然別の分野の話なのでアナロジーがどこまで通用するのかはわからないが、いつも屠場(とじょう)労働者の みなさんが 笑顔で いられますように。 - hituziのブログじゃがーを参照されたい。

*11:海燕氏が参考資料として掲げている7冊の本はどれも全く読んでいないが、きっと直接言及または理論内への組込場所の確保を行っている人もいるはずだと思う。

*12:パーソン論の限界を指摘しているのに、その後の議論もパーソン論に依っている部分があるように見えて、なんか変だなとは思ったのだけど。

*13:及び、妊娠中絶についての生命倫理学的議論 - uumin3の日記も参照。

*14:コメントの中の「バイオリニストの比喩」というのはここで紹介されているものだと思う。ほかこことかこことか。