叙述トリックについてのはしりがき

叙述トリック概論を読んで気になった点について書いておく。
この論考ではトリックを「隠すトリック/騙すトリック」に二大別し、叙述トリックは後者に該当すると主張されている。


例えば密室トリックやアリバイトリックの一部のように、どうやって実現したのかわからないという状況を生じるものは、真相を不明にするための“隠すトリック”といえます。これに対して、叙述トリックは真相が不明な状況を生じるのではなく、何らかの形で“偽の真相”が暗示される、“騙すトリック”となります。
【略】
前述の“隠すトリック”では多くの場合、トリックの存在が明かされることは致命的な問題とはいえません。【略】
これに対して“騙すトリック”では、トリックが仕掛けられていることが見えてしまうと、“偽の真相”が十分に機能しなくなる(それが“偽の真相”であることが見えてしまう)おそれがあります。【略】
それを回避するために、叙述トリックはその存在自体が極力隠蔽されることになります。つまり、隠されてきた真相が示される時にはじめて存在が明るみに出るのが、理想的な叙述トリックといえるでしょう。
「隠すトリック/騙すトリック」という区分けそのものには異議はない。また、叙述トリックの存在自体が隠蔽されるのが理想だということにも同意する。ただし、叙述トリックが一般に“騙すトリック”であるかどうかについては判断を留保する。一歩譲って叙述トリックが“騙すトリック”であると認めたとしても、そのことが「隠されてきた真相が示される時にはじめて存在が明るみに出るのが、理想的な叙述トリックといえる」ということの主要な理由を提供するものとは認めない。なぜなら、理想的な叙述トリックのもつ隠蔽性の理由をより簡単な仕方で説明することができるからだ。
以下、その説明を行う。なお、ここではトリックの同一性や個体性にかかわる厄介な問題は予め回避されているものとして話を進める。
「密室トリック」や「アリバイトリック」はさまざまなトリックを分類するための用語である。「叙述トリック」も同様だ。だが、「密室トリック」や「アリバイトリック」と「叙述トリック」とでは分類基準が異なる。前二者はトリックのもたらす現象に着目した分類であり、後者はトリックの原理に着目した分類だ。簡単のため、「密室トリック」や「アリバイトリック」などをトリックの現象別分類、「叙述トリック」をトリックの原理的分類と呼ぶことにする。現象的分類に含まれるものとしてはほかに「消失トリック」など、原理的分類に含まれるものとしてはほかに「時間差トリック」や「一人二役トリック」などが挙げられる。
ミステリで叙述トリックが用いられているということを最後の場面まで伏せておくのは、「叙述トリック」という分類が原理的なものであるためだ。もし、途中で叙述トリックが用いられていることがわかってしまうと、そのトリックの原理の一端が暴露されたことになる。
それに対して、ミステリで密室トリックが用いられているということを伏せる必要がないのは、「密室トリック」という分類が原理的なものではなく、単に現象的分類に過ぎないからだ。もし、途中で密室トリックが用いられていることがわかったとしても、それは要するに密室殺人が起こったということがわかったというだけのことで、そのトリックの原理が暴露されたわけではない。
この対比は別々のトリックの間でみられるだけでなく、場合によっては単一のトリックについても生じうる。その一例を挙げよう。
……密室状況で他殺死体が発見される。被害者のほかにその部屋にいるのは「***」だけだ。***は人間ではなく人形であるため殺人は不可能だ。よって読者――作者が想定している知的レベルの読者――にとってはこの事件は不可能犯罪だ。だが、実は「***」は人形ではなく人間であり、この事件の犯人だった。名前を鉤括弧で括ることで、人形の***とは異なる存在だという手がかりを作者は示していたのだ……。
この作品*1で密室トリックが用いられていることは別に伏せる必要はないが、叙述トリックが用いられていることは極力伏せておかなくてはならないだろう。だが、その理由を説明するのに「隠すトリック/騙すトリック」という区分けは役に立たない。なぜなら、ここで対比されているのは、性格の異なる二つのトリックではなくて、一つのトリックの現象面と原理面なのだから。
以上をもって説明終了。叙述トリック概論にはより興味深い論点があるが、とりあえず書きやすいことだけ書いて今日のところはおしまいとする。予告されている「叙述トリックとフェアプレイ」を楽しみに待つことにしよう。

*1:大変残念なことだが、これは架空の例ではない。実際に某ミステリでメイントリックとして用いられていたものだ。