「論理的」という言葉には二通りの用法がある

リンク先の話題とはちょっとずれる。というか相当ずれるのだが、「論理的」という言葉の二通りの用法について書いておこう。もしかしたら以前同じようなことを書いたかもしれないが気にしないことにする。どうせ誰も覚えていないだろうし。
日常会話で「論理的」という言葉を使うとき、たいていは「筋道が通っている」とか「理にかなった」というような意味だ。反語的に使う場合もあるけれど、そうでなければ肯定的な含みをもつことが多い。この場合の「論理的」の対義語は「非論理的」だが、文脈によっては「論理的」と「感情的」が対になることもある。いずれにせよ「話が飛躍していてまとまりがない」とか「その場の思いつきだけできちんと考えられていない」とか、そういった悪い含みをもっている。
しかし、「論理的」にはもうひとつ別の用法もある。それは「論理に関わる」とか「論理の領域に属する」という意味での「論理的」だ。こちらは日常生活で用いられることはほとんどないが、哲学書を読んでいるとしばしば出くわす。「論理的」だからいい、とか、「論理的」でないから悪い、とか、そういった含みは一般にはない。
後者の場合の「論理的」の対義語は何だろうか? 「非論理的」でも構わないといえば構わないのだが、日常的な用法のネガティヴなイメージがつきまとっているので使いづらい言葉だと思う。どうしても「論理的」ではない事柄のすべてを覆い尽くす必要があるときには、苦肉の策で「論理外的」という言葉を使うこともあるが、日本語としてこなれていない。さほど厳密さを必要としないときには、それぞれの文脈に応じて対になる言葉を選び使い分けるのがよさそうだ。「実証的」「経験的」「直観的」「事実的」などが「論理的」の対義語の候補となるだろう。特殊な文脈では「物理的」や「数学的」すら「論理的」の対義語として用いられうる。
ここでちょっと具体例を挙げてみる。
「現在の日本の首都は東京である」という文は真理を表している*1。これがなぜ真理かといえば、実際に現在の日本の首都が東京だからだ。この文が真理であるのは事実に依存しているので、このような種類の真理を事実的真理と呼ぶことにしよう。
他方、真理を表していることは間違いないのだが、特に事実に依存しているわけではない、そういった例文を考えることも可能だ。「現在の日本の首都は東京であるか、または現在の日本の首都は東京であるのではないか、どちらかだ」という文は確かに真だ*2が、これは別に現在の日本の首都が東京であるという事実に依存しているわけではない。もし、日本の首都が函館だったとしても、この文は真理を表しつづけることだろう。このような種類の真理は論理的真理だ。
では、いかなる真理も事実的真理か論理的真理かどちらかに分類できるのだろうか? 論理的にはそう言ってもいいかもしれない。しかし、実際には区別が困難な場合もある。たとえば「郵便ポストの表面の赤い色は同時に緑であることはない」は色に関する論理的真理を表したものだろうか? 「1000円で120円の飲料を買ったお釣りは880円になる」というような数学的真理は論理的真理と別のカテゴリーに属するのだろうか? どちらもおいそれと答えるのが難しい問題だ。
我々は何が論理に属する事柄で、何がそうでないのかについて、ある程度のことを既に了解している。だが、論理的な事柄と論理外的な事柄を明確に境界づけるには至っていない。これが「論理的」という言葉につきまとう曖昧さの一つの原因となっている。
……とまとめたところで、ここまでの文章はおいといて、ついでに上のリンク先2件について少しだけコメントしておこう。


「論理的」なんて書いている時点で、どんな偉そうな人でも、底の浅さが見えまくってしまいます。
「論理的」と書いた程度で底の浅さが見えまくってしまう人なら、「論理的」という言葉を使わなくても底の浅さは見え見えなんではないかと。

形式論理学は、どんなときでも絶対的に正しい。でも、現実の何かを言葉に落とし込んで、なんらかの論理系や倫理系と共に形式論理学を適用し、そしてそれを現実の問題に復帰させるときに、莫大な誤差が出る。臆面も無く「論理的」という言葉を使う人間は、この誤差に自覚的で無いというか、それを無視した詐欺師というか。
形式論理学を使うことと「論理的」という言葉を使うことの間には大きな違いがあると思うのだが……。

*1:と思う。京都から東京へ遷都する際に正式な手続きを踏んでいないというような歴史的な事情は棚上げにしておこう。それが気になる人はより紛れがなく納得できると思われる例文を自分で考えていただきたい。

*2:と思う。もしかしたら真理値ギャップの問題が生じる余地があるかもしれないが、あれこれ考えるときりがないので無視する。