たった一人の読者に向けて

ウェブで公開する文章は、基本的には不特定多数の人々に読まれることを前提としている。だが、必ずしも不特定多数の人々に向けて書かれているというわけではない。特にウェブ日記の場合には、主として特定の少数の人々に向けて書き、ついでにその他の不特定の人々にも読まれうるということにも多少配慮する、ということがよくある。ついでに言えば、不特定の人々に全く配慮しない文章も多々あるが、ここでは取り上げない。
さて、「特定の少数の人々」をぎりぎりにまで絞り込むと、たった一人の読者に向けた文章ということになる。それなら私信と同じではないか? いや、そうではない。たった一人の読者に向けて書かれた文章であっても、それはやはり不特定多数の人々に読まれることを前提としているのであり、自ずと私信とは別の書き方になっているはずだ。
「たった一人の読者に向けた文章」というと、何だか大事のように思うかもしれないが、多くの場合はさほど大したことではない。たとえば、この記事*1はある知人がこの土日に大阪へ行くと言っていたので、もしかしたら興味を惹くかもしれないと思って掲載したものだ。メールで知らせてもよかったのだが、自分もまだ見ていない展覧会*2だし、知人の関心の範囲外かもしれないので、メールは送らなかった。もしかしたら知人は当該記事を見ていないかもしれないが、それならそれで別に構わない。
つまり、「ウェブでたった一人の読者に向けた文章」とは、それが向けられた人物が読むとは限らないものでもある。もちろん、私信であっても必ず相手に読まれるという保証はないが、相手に読まれることを前提として書かれるのがふつうだ。これに対して、「ウェブでたった一人の読者に向けた文章」の場合にはそのような前提はない。
「ウェブでたった一人の読者に向けた文章」の特徴を整理すると次のようになる。

  1. その文章は、たった一人の読者に向けて書かれたものである。
  2. しかし、その文章は目当ての読者に読まれることを前提としていない。
  3. 他方、その文章はそれが特に向けられているわけではない不特定多数の読者を前提として書かれている。
  4. 従って、その文章は不特定多数の人々に配慮したものとなっている。

こうやって箇条書きにすると非常にややこしいようだが、この程度の捻れはふだんの言語活動でいくらでも見られることだ。たとえば、「近くにいる人に聞かせるための独り言」とか「聞き手に理解されないとわかってて言う高度なジョーク」とか。「ウェブでたった一人の読者に向けた文章」もこれらに類するものだ。
なお、今あなたが読んでいるこの文章は「ウェブでたった一人の読者に向けた文章」ではない。単なる不特定多数*3に向けた文章だ。あるいは、単なる思いつきの羅列とも言える。
では、なんでこんな話題を思いついたのかというと、今ちょうど「ウェブでたった一人の読者に向けた文章」を並行して書いているからだ。その文章を誰に向けて書いているのかは書かない。書いてしまうとつまらない。「あの人の今の状況だとこの記事を読むかどうかはちょっと微妙だけど、もし読んだらきっと苦笑いするだろうなぁ」と思いながら書くのが楽しいのだ。
他方、この楽しみは苦しみと表裏一体だ。「どう書けば相手のリアクションを誘うことができるのか」とか、「相手に何のインパクトも与えられなかったらどうしようか」とか、「相手には本当に言いたいことが伝わり、それ以外の人には不自然なく表面上の意味が読み取れるようにするにはどう書けばいいのか」とか、そんなことを思いながら書いては消し、消しては書くのだから、相当頭を捻ることになる。だが、この苦しみもまた楽しみの一部だ。
この話に特にオチはありません。

*1:これはただのメモであり文章の呈をなしていないが大目に見てほしい。

*2:次の土曜日に作者が来訪するそうなので、その機会に見に行こうと思っている。なお、言及した絵そのものは2年前にコピーの時代展で見たことがある。

*3:とはいえ、この種の話題に興味のある人はさほど多くはないだろうから、「多数」とは言い難いかもしれない。