『大奥』から最終戦争へ

昨日、『大奥』の感想文を書いたら、次のようなコメントが寄せられた。


かめや*1 『『大奥』は一巻目を読んだ時はたしかに歴史に名を残すかもというくらいの衝撃を受けましたが、二巻目を読んで思ったことは、すごいのは作者のよしながふみそれ自体であり、作品ではないということです。といいますのも、『大奥』の人間模様がうますぎて、世界設定が霞んでいるからです。物語の水準としてはたしかに高いですが、これまでのよしながふみの作品と比べてどうかといわれると、突出しているようには思えません。ほかの作品も同程度に高水準だからです。
単にそれらの作品の中で、出発点がファンタジー(それも、普通なら「安易にBLやりたいし、目を引きたいだけの無茶な設定だろ?」と思うようなもの)で、なおかつそんな設定から開始しても物語がきちんと機能した、という点のみがすごいことで、作品そのものは「ある種の記念碑」として名を残すものではないと思います。
残されるのはよしながふみの名前のほうであり、多分その時の代表作も『大奥』ではないような気がします。
で、私の長文は『大奥』を読め!、というものではなく、よしなが作品を読め!、というものなのでした。にんにん。』(2006/12/21 11:32)
約言すれば「『大奥』はよしながふみの作品の中で特に優れているというわけではない」ということになる。
他方、海燕氏は、次のように述べている。

海燕 > よしながふみは凄い凄いって言われていたんだけれど、いままであんまりピンと来なかったんですよ。 (01:05:37 17-Dec-2006)
海燕 > でも、「大奥」を読んで、あ、こりゃすごいわ、と。 (01:05:45 17-Dec-2006)
海燕 > いままでも騒がれていたので、たぶんぼくの目がくもっていただけ。 (01:07:41 17-Dec-2006)
ついでに昨日も引用した煽りを再掲。

 たとえば萩尾望都が〈ポーの一族〉を描きはじめたとき、その時代の読者は作品の真価に気付いただろうか。
 それがたんにひとつの優れた作品というにとどまらず、永遠に漫画史に記憶されるべき奇跡なのだと、気付いていたのだろうか。
 よしながふみの最新作〈大奥〉を読むとき、ぼくが感じるのもその種の感慨だ。目の前で歴史が形づくられていくことの、えもいわれぬ感動。
 おそらくこの作品は2000年代の漫画界にとってある種の記念碑となることだろう。そういった作品をリアルタイムで読みすすめられることに感謝したい。
並べてみると、両氏の評価基準の違いを垣間見ることができて興味深い。
鶴屋=亀屋氏は『大奥』のSF*2的な設定をあまり高く評価していないが、海燕氏が『ポーの一族』を引きあいに出して熱く語ったのは、まさにその設定ゆえのことだろう。
ところで、皆さん、『ポーの一族』はご存じですよね? 知らない人は、とりあえずポーの一族 - Wikipediaを参照してください。
さて、ここで話題を変える。
『大奥』と『ポーの一族』には少なくとも2つの大きな共通点がある。

  • 「歴史」にまつわる壮大な物語であるということ
  • 「歴史」を語る順序が前後しているということ

『大奥』はまだ回想に入ったばかりで、この後のストーリーがどのような順番でどこまで語られるのかは明らかではないが、『ポーの一族』が恐るべき構想力をもって話数シャッフルを行っていることは「ポーの一族」作品表を見れば一目瞭然だ。なんと、連載時と3回の刊行本の話数がすべて違っており、しかもいずれも作中の時系列と一致していない! 作品の性格も話数シャッフルの事情も全然違うので単純に比較はできないのだが、今年ネット上で話題になったアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』をふと連想してしまった。
さて、長い歴史を語るSFで、かつ、作中の時系列と語りの順序が異なるマンガは、もちろん『ポーの一族』だけではない。『ポーの一族』よりさらにスケールが大きいSF歴史マンガを、萩尾望都と同じ24年組の1人、山田ミネコが描いている。「最終戦争シリーズ」だ。最終戦争シリーズ作中年代順作品年表を見ただけでも圧倒される。そういえば、「ハルマゲドン」という言葉を初めて知ったのは、オウム事件でもなければ『幻魔大戦』でも『ノストラダムスの大予言』でもなく、この「最終戦争シリーズ」だった。ああ、まとめて読みたいなぁ。
……とりとめのない話になってしまったが、そろそろ眠たくなってきたので今日はこれでおしまい。

*1:以前は「鶴屋」と名乗っていた人。ネコ耳ってどんなこと?―とっても萌えたいケモノ耳入門参照。

*2:本人の言葉では「ファンタジー」。