うらやましさも妬ましさも面白さのうち

 『時かけ』を見ると憂鬱になるというひとがいる。ぼくにはわからない感覚である。

 近頃気づいたのだけれど、ぼくにはひとがうらやましいとか妬ましいという気持ちが欠けているようだ。どんな本を読んでも、映画を見ても、そんなことを思ったことがない。

同じ日に全くの別件で同じサイトに2回言及するということは、情報収集範囲の狭さの表れでもあり、当該サイト管理人に何か含むことがあるかのような誤解や邪推を招くもとにもなるので、なるべく控えるようにしているのだが、この話題には非常に興味をそそられたのであえて取り上げることにした。
アニメ版『時をかける少女』を見たのは去年の夏のことで、今となっては記憶も薄らいでしまったが、別に鬱になったり死にたくなってりはしなかった。たぶん、タイムパラドックスと「ゴルトベルク変奏曲」と東京国立博物館に意識が向いていて、作中世界に没入したり登場人物に自己投影したりしなかったからだろう。
しかし、『時かけ』で憂鬱になった人と似た心理状態に陥ったことが全くなかったわけでもない。今でも思い出すのは、乙一の「しあわせは子猫のかたち」を初めて読んだときのことだ。『失踪HOLIDAY (角川スニーカー文庫)』が出てすぐだから、2000年12月だ。当時、生まれ育った実家を離れて、とある地方都市の四畳半一間の狭い部屋でひとり暮らしをしていたのだが、冬に入って風邪をひいてしまい、看病してくれる人もなく、布団にうずくまって軽い文庫本*1を読もうと思い……と、こんな話を長々としても仕方がない。
「しあわせは子猫のかたち」は「せつなさの達人」乙一の本領を世間に知らしめた*2作品だが、その「せつなさ」の中核をなすのは、うらやましさであり、妬ましさではないかと思う。こんな事を言うと首を傾げる人も多いだろう。「しあわせは子猫のかたち」の主人公の境遇は決して恵まれたものではないのだから。だが、作中での主人公の位置づけではなく、その物語に登場して主人公としての役割をこなしているということは、非常にうらやましく、また妬ましいことなのだった。振り返って我が身をみれば、何のドラマもなくスリルもなくただ漫然と生きているだけ。ああ、せつない。
読者や観客にうらやましさや妬ましさを感じさせる物語は結構あるように思う。もう一つだけ、『シラノ・ド・ベルジュラック (岩波文庫)』を例に挙げておこう。
うらやましさも妬ましさも面白さのうちだ。そのようなことを思ったことがないというのは言葉の勢いで言ったことで、きっと海燕氏も物語に接してうらやましさや妬ましさを感じたことがあるのだろうと思う。物語にうらやましさや妬ましさを全く感じない人もいるだろうが、そのような人がどういう仕方で物語に接するものなのかはまったく想像もつかない。

*1:「軽い」というのは物理的な意味。あまり重い本を持つと腕が疲れるので。

*2:ただし、当時はまだごく狭い「世間」だった。