物語の連続性 −続篇とパロディの間−


 どこまでが正統な続編で、どこからがただのパロディなのか。その境界を見極めることはむずかしい。
【略】
 製作スタッフが共通していれば良いというなら、たとえばスタッフの誰かが趣味でゲームを作ったとしたら、それも正統な続編といえるだろうか? ぼくたちはどこでオリジナルとパロディの区別をつければいいのだろう?
 結論からいうと、はっきりその境界を定めることは不可能だと思う。なぜなら、物語の連続性というものは、その作品を体験しているユーザーの幻想にすぎないからだ。
 作り手が連続した物語のつもりで製作しても、もしユーザーが「こんなものは続きとはいえない」と感じてしまえば、魔法は解ける。
 すべては受け手の受け取り方ひとつ。あらゆる意味で正統な続編でも、受け手が連続した物語として認識できないようでは、オリジナルと同じ世界の物語とは言い切れない。
時間がないので詳しく論じることはできないが、この見解は受け手(ユーザー)個人に重きを置きすぎていて、物語やゲームの社会的側面をうまく捉えていないのではないかと思う。
物語の連続性は、おそらくは他の事柄から独立に存在するわけではないだろう。しかし、だからといって、受け手の内面の「幻想」「受け取り方」にのみ還元されるという見方はいただけない。そりゃ、ただの観念論*1だ。
この話題については、そのうちもう少し詳しく考えてみるつもり。あ、はやく『テヅカ・イズ・デッド』を読まなきゃ。

*1:「観念論」というのは、「観念的な議論」という意味ではなく、idealismのこと。念のため。