難しい批判を行う前に再読したらどうだろう。

ここで言及されている「「「「「「「自然主義の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬」の誤謬は一年前に書いた文章で、今となっては書いた本人すら忘れてしまっているくらいだから、別に批判を受けたことについて腹が立ったわけではない。むしろ、「自然主義の誤謬」についての俗流解釈がムーア自身の主張とは違っているらしい*1ということを気づかせてくれただけでもめっけものだ。
だから、一時はスルーしようかとも思ったのだが、しばらく経って考えが変わった。腹が立つとか立たないとかの感情の話は抜きにして、著しい事実誤認がある場合は指摘しておくべきではないかと思い直したのだ。
すなわち、「僕」=安眠練炭という事実誤認*2を。

追記

ここで言及されている伊勢田先生の日記のJuly 25 (Tue.), 2006という記事を探してみた。

ゆえあってPrincipia Ethica の勉強。この本の翻訳がないというのはどうしたものか。自然主義的誤謬という言葉の解説をインターネットで調べてもろくなものが出てこないのはこの本にちゃんとした翻訳がないというのも大きな理由だと思われる。その中で永井俊哉さんによる解説は非常にしっかりしてるのだが、肝心の自然主義的誤謬とは何かについての結論(永井さんの解釈5や解釈6)は深読みのし過ぎではないかと思われる(これはムーアも認める直観主義者シジウィックとの対比で登場する論点だし)。「よい」に関する分析的命題は「正しい」とか「義務」といった同族語(これを評価語という形で特徴づけるかどうかは別として)にしか成り立たず、それ以外のものと分析的に結び付けようとするのが自然主義的誤謬だというフランケナの理解で一応決着がついたと考えるべきだろう。

失礼、『倫理学原理』翻訳はないわけではなく入手困難なだけでしたね。情報どうも。アマゾンではタイトルすらヒットしない。

自然主義の誤謬自然主義的誤謬)、侮り難し!

*1:上のリンク先では具体的に説明されていないが、調べてみるとムーアの自然主義的誤謬批判という詳しい解説記事があった。

*2:件の会話はid:cogni氏の日記からの引用文なので、「僕」というのは氏のこと。氏の日記は現在プライベートモードになっているので参照できないが、それでも引用文だということは一目瞭然ではないか……と思ったのだが、ソースを見ると引用タグが段落タグに挟まれているという物凄い文法エラーがあった。これは迂闊だった。今からこっそり直すのもフェアではないのでそのままにしておくが、今後は気をつけます。