この世でいちばん面白い「本」

仕事をやめて一時的に暇になったので、昨日、元職場の近所にある美術館に行ってみた。ここ数年、毎年10回以上は訪れていた美術館だ。これからはそう頻繁に立ち寄ることができなくなるので、最後の挨拶のつもりだった。
この美術館は公立で、景気のいい時代に莫大な費用をかけて建設された。設計は、いま都知事選に出ている人が担当したそうだ。古き良き時代の話だ。今では年間予算は削られる一方で、特別展は年に一回、それもデパートの催事場でやっているような、ちょっとアレな感じのするもので、あまり見応えがない。常設展は館蔵品の展示が中心だが、主として20世紀後半の前衛作品を収集してきた美術館*1なので、あまり一般向けはしない。六本木あたりにあればそれなりに人も集まるのだろうが、人口減少の激しい地方都市の、それも駅からかなり離れたところに建っているとあって、いつ行っても客があまりいない。昨日は平日で、常設展示のみだったので、ざっと展示室を見た限りでは、ほかに3人しか客がいなかった*2
こんな美術館に月一に近いペースで通っていたのにはわけがある。オープンスペースに備え付けられている、全国各地の博物館・美術館のチラシを綴った資料集が目当てだ。この種の資料を図書室や資料室に備えている館はあちこちにあるのだが、職場から近いということと、入館料も特別な手続きもなしに閲覧可能だということで、この美術館のものを愛読していた。
「愛読」というのは奇妙な言い方だと言われるかもしれない。チラシは「読む」ものじゃないだろう、と。だが、その綴りは、とにもかくにも冊子の体裁をとっている。ページを繰ってチラシに掲載された画像を鑑賞し、記載事項に目を通すのだから、これはまぎれもなく「読書」だ。
もともと広告チラシは人目を惹くように作られている。そうでなければ広告の役目を果たさない。展覧会のチラシも広告チラシの一種なので、手に取った人の興味を少しでも惹きつけることができるようにさまざまな工夫が凝らされている。展覧会を「面白そうに」みせるためのチラシが、「面白い」のは当然のことだ。
そのようなチラシが、この「本」には大量に綴られている。日本全国から集まった「面白さ」のエッセンスが詰まっているのだ。さらに、ふつうの本とは違って、この「本」は手に取るたびに内容が変わっている。期限が終了した展覧会のチラシを外して、新しく到着したチラシに差し替えられているからだ。だから、何度「再読」しても面白い。これこそ、この世でいちばん面白い「本」だ。
……そんなことを考えながら美術館を出て、バス停でバスを待つ間に、同種の面白さを備えた「本」がほかにもあるとに思い立った。
たとえば、時刻表。
時刻表マニアは世に多い。今ここで時刻表の魅力を改めて語る必要もないだろうが、上述の展覧会チラシ集との共通点だけ指摘しておこう。それは、「読む」人の想像力を刺戟し、未だ見ぬものへの期待を掻き立てるということだ。
従って、この種の「本」の面白さは、「読む」人の想像力に大きく依存することになる。時刻表を単なる数字の羅列としてしか見られない人も多い。それはそれで仕方がない。
ここでちょっと脱線。
効率的な移動手段のみに関心のある人にとっては、ネット上の検索サービスがあれば時刻表は不要だろう。展覧会情報にしても、ネットで調べる方法はいくらでもある。「本」がもっていた実用的な機能は徐々にネットに取って代わられつつある。これからは、「読む」人の想像力を掻き立てるという機能に特化していくのではないだろうか。
そんなことを考えているうちにバスが来たので乗り込んだ。で、車中でさらに考える。
「読む」人の想像力を掻き立てる「本」。美術館通いを始めるよりも前、時刻表の見方を覚えるよりもさらに前に、そんな「本」に出会ったことがあった。中学生の頃、いや、もしかしたら小学生の頃だったかもしれない。金はないけど、暇だけは腐るほどあった子供の頃に、何度も何度も繙き、特に気になったところには印をつけて、いつか現物に出会えることを憧れていた。
大人になって行動範囲が広がり、金銭的にも余裕ができたので、欲しいときに欲しいだけ現物を買うことができるようになったため、いつの間にかその「本」を「読む」習慣がなくなってしまい、子供の頃に感じた憧れを忘れてしまっていた。今でも、その「本」は書店に行けば置いてあるのだが、手に取ることすら稀だ。
かつて、この世でいちばん面白かった「本」。そして、今ではその「面白さ」を感じるのが難しくなっている「本」。それは、各社の文庫解説目録*3だ。

*1:それも、ここ数年はほとんど収集活動ができず、寄贈や寄託に頼っているらしい。

*2:もしかしたら、ほかに3人も客がいたことに驚くべきかもしれない。

*3:子供の頃によく読んでいたのは、角川文庫、新潮文庫創元推理文庫、ハヤカワ文庫、そしてちょっと後ろめたい思いをしながらそっと持って帰って秘かに読んだ、富士見ロマン文庫の解説目録だった。