椰子の実ジュースを飲みに中華街へ

フェアだとかアンフェアだとか、叙述がどうとか倒叙がこうとか、一部の偏狭なミステリファンの間でしか通用しない話につきあうのに飽き飽きしたので、気晴らしのために出かけることにした。
とくにあてもなく山手線に乗っていると、なぜだか急に椰子の実ジュースが飲みたくなった。椰子の実ジュースといえば中華街、中華街といえば元町だ。ついでに旧居留地のあたりを散策するのも悪くはない。
うまい具合に電車はちょうど乗換駅に到着した。この駅で乗り換えればそのまま中華街の最寄り駅まで一本で行ける。躊躇することなく山手線を降りて、別の路線の電車に乗り換えることにした。
それからどれだけの時間が経ったのかはよく覚えていない。少しうとうとしているうちに電車は目的地に到着した。階段を上って少し歩くと中華街だ。椰子の実ジュースが待っている。時刻は午後2時だった。
ところが、駅の改札口を出たところで殺人事件に出くわして足止めを食らった。犯人の顔は見届けた。あれは確か南こうせつだ。いや、高村薫か? どっちかわからない。でも、南こうせつ高村薫のどちらかであることに間違いはない。
調べてみると、その日は南こうせつ高村薫も午後にはアリバイがない。ただ、南こうせつは午後1時には川崎にいたことがわかっている。また、高村薫は同じ午後1時には大阪にいた。さて、犯人はどちらだろう。
「犯人は南こうせつだ。川崎から横浜までだと1時間あれば十分移動できる。一方、大阪からだと絶対に無理だ」
「まてまて、よく読んでみろ。地の文のどこにも『横浜』とは書かれていないじゃないか。事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
「いや、これをデータ不足と言ったらかわいそうだ。文字通り、すべての手がかりを記述するのは不可能だ。論理学の証明問題じゃないんだから、ある程度の情報は外挿して推理するのは当然だ。日本の地理を知らない人には推理できないから、そのような人に対しては不親切かもしれないが、それはフェア/アンフェアのレベルの話とは別だろう」
「なるほど、つまりこういうことだね。作中に明記されていなくても、作中の記述と手持ちの知識から推測できるデータであれば作中に提示された手がかりと同様に用いることができる、と」
「まあ、そういうことだね」
「じゃあ、この文章には『横浜』とは書かれていないけれど、地の文に『横浜』と書かれているものとみなして差し支えないわけだ」
「そうなるね」
「すると、実はこの事件が横浜で発生したのでなかったのだとすれば、アンフェアだということになるね。地の文に『横浜』と書いておいて実はそうでなかった場合と同じことなんだから」
「んー、そうなるかな」
「では、こんなのはどうかな。ここでいう山手線とはJR山手線のことではなくて神戸市営地下鉄山手線のことで、乗換駅とは渋谷駅のことではなく新長田駅、乗り換えた路線は東横線ではなく海岸線、事件の起こった駅は元町・中華街駅ではなく旧居留地・大丸前駅だ、というのは。これだと、地の文に明示的に書かれた事柄と全く矛盾しない。しかし、地の文に『横浜』と書かれているものとみなした以上、それに抵触するからアンフェアだということになる」
「あー、それはどうかな。叙述トリックを使っている場合は、地の文に明示的に書かれた事柄と矛盾しない限りはフェアだということになるんじゃないだろうか」
「では、叙述トリックを使っている場合と使っていない場合と、フェアプレイのルールが違う、ということなのかい?」
「そうなるね。いかなるミステリにも同じフェアプレイのルールが適用されるべきだと考える理由はないんだから」
「でも、読者にとってみれば、今読んでいるミステリが叙述トリックを使っているかどうかは一般にわからないわけだよね。とすると、どちらのルールが適用されるのかを知らない状態で推理することになって具合が悪いんじゃないかい?」
「あー、んー。あっ、そうだ。あるミステリがフェアかアンフェアかは、全部読み終わってから事後的に評価することなんだ。だから、読んでる最中にどちらのルールが適用されるかわからなくても問題はない」
「なるほど、それで一件落着だ!」
で、結局、犯人は南こうせつだったのか高村薫だったのかはわからずじまいとなった。