異世界のお酒

 今ちょっと異世界を舞台にしたファンタジーを書いていたりする。

 その中で、ずっと引っかかっているというか頭を悩ませていることに、「エール」という単語がある。声援のことではなく、上面発酵のビールのこと。

 カタカナ語をそのままカタカナ名前で表記するのは、その異世界文化のあり方をぶち壊しかねないので極力避けたいのだけれど、どういった漢字表現におきかえたらいいのか。

 一番妥当なのは「麦酒」になるのだろうけど、これはどう考えてもいわゆるビールとされるラガービールを思い浮かべられることになるだろう。単純に麦原料の酒だからと割り切ってみたとしても、じゃあモルトウィスキーや麦焼酎はどうなるのって感じだし。どのみち、麦酒=エールとはなりづらい気がする。

 正確さを求めれば「上面発酵麦酒」とでもなるのだろうけど、いちいちそんな単語があらわれるのはわずらわしくてしかたがない。

 結局、うまい答えが見つけられずにエールとひとまずエールと書いておいてあるのだけど、自分で見ても居心地が悪くてしかたがない。どうにかならないものか。

これを読んで、似たようなエピソードがあったことを思い出した。

あるライトノベル作家が書いた中世ヨーロッパ風異世界ファンタジーのあるシーンで酒の名称として「ぶどう酒」と「ビール」が出てくるのに違和感を抱いた読者が、その作家のサイン会で「このシーンで『ワイン』ではなく『ぶどう酒』と書いているのは外来語を避けるためだと思うのですが、『麦酒』ではなく『ビール』とそのままにしているのはなぜですか?」と尋ねたところ、その作家は「『麦酒』だとビールかエールか区別がつかないからです。中世では麦で作った酒としてはエールのほうが一般的だったのですが、このシーンでは当時エールより安酒とみなされていたビールを出したかったので、『麦酒』を避けたのです」と答えた。

一般に、現実世界とは異なる法則や制度の成り立つ世界を舞台にしたファンタジーでは、ヨーロッパ起源の外来語を避けることが望ましい*1とされている。が、ヨーロッパに昔からあって日本には比較的最近入ってきた文物には、一般読者に意味がちゃんと伝わる訳語がないことが多い。そんなときは、厳密さを犠牲にして包括的な語*2を用いるか、雰囲気を犠牲にして外来語*3をそのまま用いるかの二者択一を迫られることになる……と書きかけたところで、第三の道もあるのではないか、と思い直した。
適切な言葉がなければ、自分でつくってしまえばいいのだ。
「この地方には、○△□という酒がある。これは麦を発酵させて作る酒で、発酵が進むにつれて酵母が泡とともに浮かび上がってくるところに特徴がある。『○△□』とは古語で花びらを意味する。古人は酒の表面に浮かぶ酵母の塊を花びらに見立てたのだろう。風流なことだ。だが、実際に○△□の醸造桶を覗いてみると、汚い塵が浮かんでいるようにしか見えない」とかなんとか説明をしておけば、そこでいう「○△□」という名の酒が現実世界のエールに類似したものだということが、わかる人にはわかるだろう……たぶん。
「○△□」にどんな語感の言葉を当てはめるかによっても雰囲気が損なわれたりイメージがずれたりすることもあるだろうし、あまり造語ばかり飛び交うと極めて読みにくい小説になってしまう。また、作品の長さやテンポとの兼ね合いでいちいち詳しい説明をしていられないこともあるかもしれない。だから、この手法はいつでもどこでも無制限に使えるわけではない。

追記(2008/01/22)

ここでは、エールもビールの一種だと書いたが、ビールとエールの関係は時代によって違うようで、詳しいことがわからないため、細部に立ち入るとぼろが出る。そこで、上では外来語でしか表せない特殊な文物をどう表現するか、という一般論でお茶を濁した。
その後、RPGコラム 『うがつもの』: 人間はエール、神々はビール 〜雑学を3時間で調べてみる〜を読み、やはり素人には歯が立たない分野だと思った。

*1:その理由を説明すると長くなるので省略。

*2:ここでは「麦酒」。

*3:ここでは「ビール」や「エール」。