物語と鋏は使いよう

俺が文学や芸術を使って社会・政治・宗教・倫理についてメッセージを発したり干渉しようとしたりする試みに距離を置くのは、インチキがやり放題だからだ。社会・政治・宗教・倫理が「実際にどう効果するか」を議論するものであるのに対して、文学や芸術は、実際的な効果を捨象し、「どのように表現すれば受け入れられやすいか」を探求するものだからだ。文学や芸術のテクニックを用いて行われる言明はなんでもありのインチキだ。たとえば、「サルにでも描けるまんが教室」では、実際に、包茎禁止法推進漫画と包茎禁止法反対漫画をまったく同じ絵面、コマ割、ストーリー展開で、吹き出し内の単語を単純に入れ替えるだけでやって見せている。

【略】

作家が文学・芸術のやり方で宗教・倫理・社会・政治に対して何か物申したいのであれば、何より先にまずこの一点、「文学や芸術の方法を用いればどんなものでも肯定できる。俺たちはそんなインチキ屋なのである」ということの自覚と態度の表明が求められるのではないか。学問やジャーナリズムと戦いたいのであれば、学問やジャーナリズムの方法でやるべきなのだ。

全然関係ない話。
現物は本の山に埋もれてしまって見あたらないので不正確な引用で恐縮だが、「サルまん」のどこかに「近代宣伝術の父アドルフ・ヒトラー」と書いてあったような覚えがある。
ヒトラーはもともと画家志望だったが、そっち方面では芽が出なかった。その代わり弁舌の才に恵まれた。これもある意味では「物語」の才能といえるだろう。
ヒトラーと同年生まれのもうひとりの天才、チャップリンは映画『独裁者』で徹底的にヒトラーを笑いのめしてみせた。これはまさに「文学や芸術を使って社会・政治・宗教・倫理についてメッセージを発したり干渉しようとしたりする試み」だ。『独裁者』は歴史に残る名画だが、純粋な喜劇映画とはいえないため、チャップリンの初期作品より劣るという意見を見かけたこともある*1
ところで、

また、ヒトラーは政治キャリアの初期においてすでに、映画界におけるチャップリンの人気に目をつけていたとする意見もある。“チャーリー”のキャラクターとヒトラーの類似はたびたび語られるところである。つまり、自らの知名度を上げるために、チャップリンと同じ四角い口ひげを生やしていた、というのである。

これが本当だとすれば非常に興味深いのだが、ウィキペディアの記述を丸のみにはできない。せめて出所が書かれていれば調べようもあるのだが。

*1:確か小林信彦がどこかでそんな意見を紹介していたが、出典は忘れた。ごめん。