低炭素社会実現のために

たぶん同じ疑問を抱いている人はほかにもいるのではないかと思うが、寡聞にして疑問を呈しているのを見聞き
したことがないので、ここで書いておこう。それは、
「『低炭素社会』って言葉、おかしくない?」
ということだ。
ウィキペディア曰く、

低炭素社会(ていたんそしゃかい, Low-carbon society)とは、二酸化炭素の排出が少ない社会のこと。低炭素型社会ともいう。低炭素経済(ていたんそけいざい, Low-carbon economy)は経済システムを重視した概念であるが、基本的には同じである。

ということなので、たぶん英語から直訳したのだと思うが、それにしても端折りすぎだ。二酸化炭素と炭素は同じ物質ではない。
それはさておき。
二酸化炭素の排出を減らすためには、石油や石炭などの化石燃料の使用を控えるのがいちばんだが、燃えると二酸化炭素が出るのは別に燃料に限ったことではないので、とにかく不要不急の燃焼を少しでも減らすべきだと考える。
たとえば、煙草を嗜むのなら紙巻き煙草や葉巻煙草*1をやめて嗅ぎ煙草や噛み煙草に変えるほうが望ましいし、花火見物のかわりに花見をするほうが二酸化炭素を減らすことができる。生ゴミは燃やさずに堆肥にしましょう。
ここまでは、まあ誰でも考えつくことだと思うが、探せばほかにも無駄な燃焼がある。たとえば、火葬はどうか。人が死んだら荼毘に付すのが当たり前だという固定観念に囚われていないだろうか?
人体には豊富な栄養分が含まれているのに、高温で焼き上げてしまうと、それらの資源が全く再利用できない。考えてみれば、これは相当もったいない話だ。交通事故など外傷が原因で死んだ人の身体はそのまま食用になるし、病死人肉でも家畜の飼料にする事は可能だ。それでも心配だというなら、発酵させて肥料にすればよい。せっかく固定された窒素をみすみす大気中に放出するのは愚の骨頂と言えよう。
自動車の規制とか、冷房の抑制とか、ほかにももっといろいろやらなくてはならない事があるのは承知している。だが、人間というのは弱い生き物で、欲望は膨張するばかりでなかなか自制することができないものだ。自家用車を電車に乗り換えたり、冷房温度の設定を1度か2度上げたりするだけの、ほんのちょっとしたことでも、いざ実行
しようとすると大きな困難を伴う。それに比べると、火葬の禁止は、効果は限定的であるにせよ、人々のふだんの生活の利便性を全く損なうことがないので、案外簡単に実現できるのではないかと思う。
識者の方々に是非ご検討頂きたい。

*1:なぜ「紙巻き」だと「き」を送って、「葉巻」だと送らないのだろう?