二度殺された死者と「二重の光輪」

私たちは事件が何を意味するのかを知るために、死者たちをただの「記号」として、「数字」として、「誰でもよかった死者」として扱うことを強いられる。

このとき死者たちは二度殺されている。

一度目は「メッセージ」を書いた犯人によって、二度目は「メッセージ」を解読しようとする私たち自身によって。

笠井潔は、『探偵小説論』において、探偵小説は大量死の時代に抗して、フィクションの世界で固有の人間の死を復権させる試みであり、そこで死者は犯人による巧緻を極めた犯行計画という第一の光輪と、それを解明する探偵による精緻な推理による第二の光輪によって、世界大戦で塹壕に積まれた無数の死体の山と比較して、二重の光輪で選ばれた者となるとした。(しかし、このような探偵小説特有の死体粉飾は、死者にとっては大きな迷惑であり、死体冒涜的なのではなかろうか?また、『哲学者の密室』で笠井潔は、密室の本質直観を「特権的な死の封じ込め」ではなく、「特権的な死の夢想の封じ込め」であるとし、探偵小説によってもたらされる特権的な死とは、自己欺瞞的な夢想であると看做していたのではなかったか。そういう点から言えば『探偵小説論』は『哲学者の密室』より、哲学的に後退しているといえるのではないか。)笠井潔の大量死理論は、多分に自己中心主義的な思い込みの世界だが、とにかくこの思い込みに基づき、笠井は「タコ足型の「自己消費」派」ミステリは、大量死の時代に抗する立派な目的をなしくずしにする悪を犯したと看做すのである。