「都市が拡大する理由と、郊外の畳み方」に関するおぼえがき

都市が拡大する理由と、郊外の畳み方 - Thscを読んで思いついたことを忘れないうちに書き留めておく。元記事と同じく投げっぱなしだが、もしかしたらヒントくらいにはなるかもしれないので公開することにした。
以下、出典を明記していない引用文はすべて上記リンク先から。

都市は拡大しているのか縮小しているのか

もう都市はとっくに拡大しようとしていない。勝手には増えないと言っておいて何だけど、むしろ都心回帰しようとしている。

東京では都心回帰現象が生じている、というのは今ではほぼ常識だ。少し前に大阪の淀屋橋近くに高層マンションが建設されているのを見かけたことがあるが、たぶん大阪でも都心回帰が進んでいるのだろう。だが、都市一般について同じことが言えるのかどうか。地方の中核市レベルの都市*1でも都心回帰現象が見られるのなら、「もう都市はとっくに拡大しようとしていない」と言ってしまっていいのだろうけれど。
この点は国勢調査のデータを分析すればわかるはずだが、自分で分析するのは面倒だから、誰かがやっていないか調べてみることにしよう。
ところで、都心回帰現象というのは、人口について言われている事柄であって、都市機能について言われていることではないと理解しているのだが如何?

都市も農村も人ではないから、何かをしようとすることもない

それでも都市が郊外に拡がってきたのは、農村が郊外化しようとしたせいだよ。
都市からの内圧じゃない、郊外化しようとする農村からの外的負圧で都市は膨張した。
というのは、農地は農地のまま譲渡できない。できるんだけど農業委員会が難癖付けて許可しない。
で、農地転用なら速攻で許可が出るから、住居地や雑種地にして売る。
そうやって平地農業地域は無秩序に都市郊外になっていったってわけだ。

これはよくわからなかった。農地法関連の法制度をよく知らないので、今度機会があれば勉強してみたい。
ただ、素人考えでは、一方に農地転用しようとする人がいても、他方に農地から住宅地や宅地に転用された土地わ買ったり借りたりしようとする人がいなければ、無秩序な郊外化は起こらないのではないかと思う。
たぶん関連するニュースが昨日の毎日新聞に載っていた。

平成の大合併とは要するに自治体財政上の要請によるのではなかったろうか

交流の深い地域を一つの自治体にしてコントロールしやすくするのが平成の大合併本来の目的。

明治の大合併は小学校のため、昭和の大合併は新制中学校のため、というふうに合併の主目的がわりとはっきりしている。もちろん、それ以外の理由もあったのだろうが。
それらに比べると、平成の大合併はどうもよくわからない。ただ、強いていうならやっぱり自治体の赤字減らしがいちばんの原動力なんじゃないかと思う。この辺をよく読めば、別の考えになるのかもしれないけれど。

「個」の問題と文化とは切り離して考えるべきだと思うが

問題は常識や感情論をベースに語る人。限界集落や商店街なんか語る時は「個」という要素を重視するのに、郊外を語る時には「個」をまったく見ない。これは不平等にすぎるだろう。人は土を離れては生きられない=既に土を離れて移住した郊外人は生きていないに等しい=ゆえにどのように扱っても構わないという考え方。考え方っていうか、感覚でモノ言ってるだけで何も考えてないんだろうけどな実際の所。
限界集落には人間のあるべき姿があり、文化があり、個人として尊重されなければならない住民が住んでいるから、残すべき。住民の意思を大切にすべき」
「郊外は無秩序に拡大し、文化はなく、人格を認められない『人口』しかない。かき集めて奴らの費用負担で都心に放り込め。構わん、奴らのためでもある、やれ」

これは非常に鋭い指摘だ。今までに誰も言わなかったというわけではないだろうが、これまでにこういう論点を見たことがない。単に勉強不足なだけかもしれないけれど。
個人の尊重という観点からいえば、都市住民だろうが郊外住民だろうが中山間地住民だろうが平等に扱われるべきであり、郊外に住む人だけ権利を制限していいということにはならない*2。考えてみれば当たり前のことだけど、案外見落とされがちだと思う。
ところで、文化の多様性の保全*3の観点から郊外を見るとどうか。「ファスト風土」という言葉もあるくらいで、本当に画一的な文化的状況なのであれば、個々の郊外を保全する必要はないだろう。どこか典型的な郊外を野外博物館にしてしまえば用が足りる。
いや、そうじゃないんだ。郊外は一見どこも同じように見えるけれど、その内実は多種多様なんだ、と言う人もいるかもしれない。そういえば『珍日本紀行』で紹介されていた物件の多くは郊外のものだった。

郊外じゃないけれど

書き忘れていたが、先日、戸山ハイツ界隈を訪れた。ゴーストタウン化する日本で取り上げた団地だ。そのうちルポでも書こうと思っていたのだが、写真も撮っていなかったし、どういう切り口にすればいいのか考えあぐねているうちに、現地訪問の印象が薄れて書く気が失せてしまった。
戸山ハイツのことを思い出したのは

限界集落においてはむらおさめと言うのだそうだ。それと同等のケアが必要になってくるという話。まちおさめとうまいこと言おうと思ったが、まちでもないな。むらでもまちでもないのが郊外のインビジブルエリアたるゆえん。

を読んだのがきっかけだ。
東京都新宿区に位置する団地なので、決して郊外ではないのだが、ある意味「インビジブルエリア」だよな、と思った。
インビジブル」にも二通りあって、たとえばH.G.ウエルズとG.K.チェスタトンが同じ"The Invisible Man"というタイトルの小説を書いているが……などと連想に耽っているうちに夜が更けてきたので今回はこれでおしまい。
予定通り投げっぱなしだ。

*1:中心市街地空洞化問題は主として地方都市で顕著だということを思い起こそう。

*2:では、全員一律にであればどこまで権利を制約していいのか? これは非常に重大な問題だ。

*3:このフレーズは「コンパクトシティ」と「限界集落」でちょこっと用いた。あまりうまく説明できる自信がないので、字面から察してほしい。