軍艦島旅行記(写真つき)

先日予告した軍艦島旅行記をアップする。写真が多く重たいので、「以下を読む」記法を用いる。興味のある人だけ読んでいただきたい。

そもそも軍艦島とは?

端島 (長崎県) - Wikipediaを読めばだいたいわかると思う。より詳しい情報を知りたい人には次の文献をお薦めしておく。

軍艦島の遺産―風化する近代日本の象徴 (長崎新聞新書 (015))

軍艦島の遺産―風化する近代日本の象徴 (長崎新聞新書 (015))

軍艦島 住み方の記憶

軍艦島 住み方の記憶

軍艦島ツアーへ

軍艦島へ上陸するツアーは複数の会社が企画・募集しているが、今回参加したのは近畿日本ツーリスト軍艦島ツアーだ。これには羽田空港発着の軍艦島の本質を探るツアー長崎発着日帰り軍艦島ツアーがあるが、関西から長崎へ行くのに羽田を経由する意味がないので、もちろん日帰りツアーのほうを選んだ。

長崎駅(8:30) ===長崎港 〜〜〜 高島(○石炭資料館 === ○グラバー別邸跡===
○北渓炭坑跡)〜〜〜 軍艦島クルーズまたは上陸(上陸は約1時間)〜〜〜長崎港13:00
……◎出島ワーフ(自由昼食) ……… ◎出島(軍艦島 特別編纂映像視聴)・解散15:30

いま見るとこういう行程になっているが、手許の日程表では軍艦島特別映像視聴は出島ではなく石炭資料館で行うことになっているなど、若干の違いがある。実際には高島石炭資料館には入らず、高島港ターミナルの建物の2階だった。

ちょっと先走った。
集合時間まで戻ろう。

最少催行人員は30人となっているが、実際の参加者は18人だった。いったん申し込んだ後キャンセルした人が多かったのだろう。なぜこのような事になったかといえば、軍艦島の桟橋利用の許認可がなかなかおりなかったからだ。旅行日までに許可が下りなければ軍艦島への上陸ができないので、その場合には軍艦島の周囲を巡るクルージングに切り替えるということになっていたので、嫌気がさして旅行を取りやめた人も多かったに違いない。
幸い、許可は5月1日におりたが、長崎駅出発の段階ではまだ上陸できると確定していなかった。というのは、軍艦島は外海に面していて波が高く、しかも桟橋には防波堤がないため、天候の都合で上陸できないこともあるからだ。この日は天気も上々、風もほとんどなかったが、海の状況はまた別だということで、当日になってもまだはらはらさせられることとなった。
だが、じたばたしても始まらない。添乗員の誘導に従い、駅付近に停めてある観光バスに乗り込んだ。そして長崎港へと向かう。
すぐ着いた。
あれ?
別にバスに乗らなくても歩いて行ける距離なんじゃ……。
まあいい。とにかく船に乗ることにしよう。

チャーター船で高島へ向かう

ここからは、NPO法人軍艦島を世界遺産にする会の坂本理事長と軍艦島コンシェルジュのスタッフが同行することとなった。なんでも軍艦島への上陸には厳しい条件が課せられていて、安全確保のため必ずツアー客の前後に複数のスタッフがつかなければならないのだという。

船の中で坂本理事長が軍艦島の概要について説明するが、走行音がうるさくてよく聴き取れない。とりあえず、わかったことは

  • 軍艦島の長さは新幹線のホームとほぼ同じ。
  • 軍艦島は見る方向によっては、モンサンミシェルみたいに見える。
  • 戦時中に米軍が軍艦島を本当の軍艦と間違えて魚雷を発射した、というのはデマ。

ということだった。
あと、長崎付近の他の島の解説もいろいろと聞いた。長崎本土には炭坑は全くないが、長崎周辺のいくつもの島で石炭が採掘されていたそうだ。そのせいで島が潰れて今では岩礁になってしまったところもあるそうだ。でも、その島の名前は忘れた。

高島上陸

長崎港から約半時間で高島に到着した。この島は軍艦島以前から石炭の採掘を行っていたところで、トーマス・グラバー後藤象二郎岩崎弥太郎などが高島炭坑経営に携わっていたという。


炭坑が閉山となった今では往時の栄華は見る影もないが、予想していたほど寂れきっているという印象はなかった。今でも約700人の住民がいて、トマト栽培や観光などの産業があること、廃墟となつた炭坑関係の建物が撤去されて緑地として整備されていることなどが、その主な理由だろう。

同じ炭坑の島でありながら、高島と軍艦島は閉山後の処理が正反対ともいえるほど異なっている。無人島となり朽ち果てつつある軍艦島と、人口減少しつつも滅びることなく生き延び続けている高島の対比は興味深い。長崎港から直接軍艦島へ往復するだけのツアーもあるが、これから軍艦島へ行く人にはぜひ高島にも訪問することをお薦めしたい。
高島では軍艦島の模型を見たあ、グラバー亭別邸跡を訪れて、その後コミュニテイバス車輌を用いた臨時便でくるっと島内を一周した。高島港から島を半周したあたりからは軍艦島がよく見えるが、写真集などで見慣れた横からの姿ではなく、まさに「日本のモンサンミシェル」と呼ぶにふさわしい眺望だった。


いよいよ軍艦島

再度船に乗り込み、いよいよ今回の旅行の主目的地である軍艦島へと向かう。もとは「長崎市高島町端島」だったが、最近「端島」が消されて「長崎市高島町3000番地」になってしまったそうだ。たぶん、字「端島」が省略されたということだと思うが、この辺りの事情はよくわからない。


それにしても、島全体がひとつの番地というのは驚くべきことだ。この島は数度の埋立により拡張しているが、埋立地には地番が設定されていないのだろうか? 機会があれば登記簿や公図を見てみたいものだが、たぶんそんな機会はないだろう。残念なことだ。
さて、軍艦島は先にも述べたとおり外海に面しているので、常に波風に晒されている。特に台風の時期になると高波が押し寄せ、島全体を乗り越えるような大波が襲いかかることもあるという。そこで島の周囲を護岸が取り囲んでいるのだが、これは公共用地なので立ち入り自由だ。桟橋の使用や島内への立ち入りには許可が必要で、勝手に入るのは違法だが、護岸で釣りをするのは完全に合法で、制限することができない。そんなわけで、この日も太公望が何人も島内の廃墟に背を向け、護岸の上から釣り糸を垂らしていた。日本の近代化を体現した重要な産業遺産にして廃墟マニアの憧れの地も、関心のない人にとってはないも同然。当たり前といえば当たり前なのだが、釣り客とツアー客の間には決して乗り越えることのできない見えない壁があるように思われた。


それはともかく。
桟橋から伸びる真新しい見学用通路を通って、島内へと立ち入ることとなった。この通路は一般見学者のためにわざわざ1億5千万円かけて長崎市が設置したもので、くすんだ構造物の中で真っ白なコンクリートが場違いなほど目立つ。あと数年経てば周辺の景色と馴染むだろうが、今は非常に違和感がある。とはいえ、このような施設なしでは安全性に問題があり立ち入りが認められないということならやむを得ない。
軍艦島には学校や住居など数多くの建物が建ち並んでいるが、見学用通路はそれら建造物地帯から離れたところに設けられている。いつ建物が崩落したり倒壊したりしてもおかしくないので、近寄ることができないのだ。これも残念だが仕方がない。
桟橋は住居と反対側の坑道跡近くにあるので、船からみても高層アパートは山の陰になりよく見えない。せめて島の回りを一周して海上から建物群を観察することができればよかったのだけど。結局、写真や映像でお馴染みの有名スポットを肉眼で見ることは叶わなかった。

本土に戻る

軍艦島での滞在時間は1時間弱。あっけないほど短い時間だった。だが、ツアーそのものはまだ続く。この後、長崎港付近で自由昼食ののち、出島へと向かうのだ。
えー、出島?
高島と軍艦島だけだと日帰りツアーとしても時間が余って寂しいので穴埋めをしようということなのかもしれないが、そこで出島はないでしょう、と思う。軍艦島は最近脚光を浴びつつあるとはいえ、まだまだ広く大衆に受け入れられた観光地ではなく、やや特殊な興味関心をもった人が行くところだ。それなら、出島のようなベタな観光地と組み合わせるのではなく、たとえば三菱重工長崎造船所のように、軍艦島と関係の深い施設を訪問するほうがいいのではないか。
案の定、長崎港で離脱する人が何人かいた。

まあ、出島にはまだ行ったことがないし、これもツアー代金に含まれていると思えば捨てるのももったいないので、行くだけは行ったのだが、やっぱり捏造された観光地は肌に合わない。あまり楽しい場所ではなかった。
ツアーはこのあと出島から長崎駅までバスで移動して解散することとなっていたが、長崎駅に用はないので、出島で離脱することとした。その後、グラバー園長崎県美術館を経て、最後は長崎新地中華街へへと向かった。出島のことを「ベタな観光地」と言っておきながら、自由行動でもベタな観光地ばかり行っているなぁ。



だがしかし!
翌日、あまりベタではない観光地、いや、観光地といえるかどうかすら怪しいスポットでその埋め合わせをしたのだ。それはそれは非常に興味深く面白い体験だった。だが、今回は軍艦島旅行記なので、翌日の行程について述べるのは話題違いだろう。よって、詳述は控えて、かわりに写真を掲げることとした次第。
これにて軍艦島旅行記はおしまい。ご静聴ありがとうございました。