卯之吉、ときには卵之吉

大富豪同心 八巻卯之吉放蕩記 (双葉文庫)

大富豪同心 八巻卯之吉放蕩記 (双葉文庫)

天狗小僧ー大富豪同心(2)(双葉文庫)

天狗小僧ー大富豪同心(2)(双葉文庫)

一万両の長屋ー大富豪同心 (3) (双葉文庫)

一万両の長屋ー大富豪同心 (3) (双葉文庫)

御前試合ー大富豪同心(4) (双葉文庫)

御前試合ー大富豪同心(4) (双葉文庫)

今、巷で大人気の大富豪同心シリーズを4冊続けて読んだ。残念ながら5冊目はまだ入手していないが、見つけ次第買って読むつもりだ。
遊里の旋風-大富豪同心(5) (双葉文庫)

遊里の旋風-大富豪同心(5) (双葉文庫)

また、そろそろ新刊が出るそうなので、これももちろん読む。
お化け大名-大富豪同心(6) (双葉文庫)

お化け大名-大富豪同心(6) (双葉文庫)

知人からこのシリーズを薦められたのが先週の土曜日で、翌日曜日に試しに1冊目を買い、一晩寝かせて月曜日から読み始め、今日は木曜日だから、1日1冊のペースということなる。読書家にとっては何ということはないだろうが、ふだんあまり本を読まず、たまに本を手にとってもすぐに投げ出して読みきることができないという、もと本読みにとっては快挙だ。字が大きくて比較的薄めの本だからできたこととも言えるが、それにしてもこの読みやすさはただごとではない。食べ物にたとえるなら、真夏に食す素麺のようなものか。激辛ラーメンのようなインパクトはないけれど、つい箸が伸びて食べ過ぎてしまう。そんな感じの小説だ。
手に汗握るサスペンス溢れるジェットコースターノベルのような、読者を「読む機械」のように使役する苛酷さは、大富豪同心シリーズにはない。常に平常心でページを繰って、いつでも読むのを中断できるのだが、少し時間があくとまた手を伸ばしてしまう。読んでいる間は頭を空っぽにして楽しむことができ、、読み終わった後には何も残らない。これをライトノベルと呼ばすして何と呼ぶ?
「時代小説と呼ぶ」
あ、そう。
……気を取り直して、未読の人のために少し内容紹介しておこう。
主人公の卯之吉は江戸一番の札差、三国屋の若旦那で放蕩の限りを尽くす毎日を過ごしていたが、孫を溺愛している大旦那の差し金で南町奉行所の同心見習いになる。同心になったからといって特に気負って何をするでもなく、流されるままに日々を過ごしていく卯之吉だが、三国屋の財力と遊興仲間の伝手、遊びのなかで身につけた特技、そして驚くほどの強運を見方に難事件を次から次へと解決していく。
あれ? なんか似たような設定の小説がなかっただろうか。
富豪刑事 (新潮文庫)

富豪刑事 (新潮文庫)

これだ。
でも、『富豪刑事』は純然たるミステリだが、大富豪同心シリーズはミステリ色はほとんどない。犯人の正体はたいてい読者には途中でわかるし、卯之吉かどういう理路で真相を射抜くのかを推理することはまず不可能だ。そういうわけで、ミステリを読むときのような緊張はなく、疲れずに読めるというわけだ。
この読み味はもっと別のものに似ているような気がする。
テツぼん (1) (ビッグコミックススペシャル)

テツぼん (1) (ビッグコミックススペシャル)

テツぼん (2) (ビッグコミックススペシャル)

テツぼん (2) (ビッグコミックススペシャル)

どのくらい似ているのかは実際に読み比べていただくしかない。読み比べるのは時間と金の無駄だと思う人は別に読まなくてもいい。
そう、こういう小説やマンガは、別に読んでも読まなくても構わないのだ。読んでためになるわけでもなく、物語の凄みに触れて震えるわけでもない。だが、楽に読めて疲れない、そこそこ面白い本というのはなかなかないものだ。
ところで、前言と矛盾するようだけど、このシリーズで1箇所、個人的に非常に印象に残る場面があった。2冊めの『天狗小僧』の終章である人物が卯之吉に向かって言う台詞だ。

「目的が善なのなら、少しぐらい悪を為しても許されるべきだろう、などという風潮が世に広まったら、世の中は善意による悪行によって破壊されてしまう。悪意による悪行なら誰の目にも悪だと映る。皆で糾弾し、お上も取り締まるから心配ない。しかし、善意からくる悪行は、一見、善行に見えるから恐ろしい。善意の悪行を放っておけば、いつしか社会は悪によって蝕まれ、人は生きてゆけなくなる」

この台詞は、このシリーズにしてはやや引っかかる展開があった後に、いわば「毒消し」のために挿入されているものなので、軽く読み流すのが正しい読み方なのかもしれない。だが、あえて立ち止まって思いをめぐらせてみるのも悪くはないのではないかと思った。
最後に今日の見出しについて。
4冊めの『午前試合』の148ページ6行めに「卵之吉」と書いてあった。意図的に「卯」を「卵」と書く意味がないので、たぶんただの誤植なのだろうと思うが、どうしてこんな誤植が発生したのか不思議でならない。活字を組んで本を作っていた時代ならあり得たかもしれないが……。今手許にあるのは第2刷だが、その後、修正されたのだろうか?