ないものはない

昨日、ふと思いついてTwitterで次のようにつぶやいた。

読んでいる人をテストしているかのような書き方だが、ツイートした本人も明快な答えをもっているわけではなかった。誰かが答えてくれれば面倒なことを考えずにすむから楽だと思ったのだが、案の定、誰も答えてはくれなかった。所詮、世間はそんなものだ。
答えは得られなかったものの、関連情報を提供してくれる人はいた。
言われてみれば、確かに『パタリロ』にそんな話があったような記憶がうっすらと残っている。
そういえば、『一休さん』にも似たようなエピソードがあったような気がする。うろ覚えだが、桔梗屋さんが「私の店にはないものはございません」と将軍様に向かって言ったら、存在しない文物を要求されて窮してしまい、一休さんに助けを求める、という話だった。なにぶん大昔のことなので、記憶違いだったらごめんなさい。
最初の例に戻って考えてみた。「この店にはないものはない」「いくら探してもないものはない」を一連の会話で発せられたものと考えてみよう。たとえば、会話の場はどこかの超大型書店で、話題になっているのは本のことだとする。第一の語り手は、この書店にはどんな本でも揃っているという意味でこの店にはないものはない」と言う。第二の話者は書店内を隅々まで探しても見つからない本があったので「いくら探してもないものはない」と言う。二人の会話はかみ合っており、一方の主張に対して他方が反論するという流れになっている。にもかかわらず両者は「ないものはない」という同じ言い回しを用いている。こういうことがなぜ起こりえるのだろうか。
別の会話を考えてみた。二人の人物が極限状態の人間について話している。一方が「人間、いざとなったら食えないものはない」と言う。それに対して、他方は「いや、いくら腹が減っていても食えないものは食えない」と応じる。先の「ないものはない」の例とよく似た会話だ。しかし、ここでは同じ言い回しが別の意味に用いられているわけではない。「ないものはない」は異なる意味に用いることができたが、「食えないものは食えない」だとそれができない。
ここからさらに考えを進めていこう、と考えた矢先に存在と言語—存在文の意味論【PDF】のことを思い出した。この論文を読んだのはかなり前のことだったので内容はほとんど忘れていたのだが、確か今考えていることに関係があったはず。そう思って久々にアクセスしてみると、慶応義塾大学哲学科の飯田隆研究室のページが運良くまだ残っていたので、その論文を読むことができた。
おお、「ないものはない」が例文(12)として挙げられているではないか!
そういえば、以前「存在と言語—存在文の意味論」に言及したことがあったはず。検索してみると2件見つかった。

自分で書いておきながらすっかり忘れていた。
お恥ずかしい次第だが、記憶にないものは記憶にないのだから仕方がない。
としをとると物忘れが激しくなる。困ったことだ。

追記(2011/08/06)

上の文章は書いているうちにぐだぐだになってしまい、結局まともな回答は示していないが、念頭にあったのは「ない」の多義性であり、「は」のほうは特に考慮していなかったのだが、

xevra 助詞「は」の多義性による。『ないもの「それを説明すれば」ない』と『ないもの「そのようなものは」ない』の差。「ないものがない」と比較するとよく分かる。この程度の日本語を説明できない奴はない。 2011/08/06

これを読んで「むむっ」と唸らされた。
確かに「ないものがない」の場合だと、素直に読めば「なんでもある」という意味になり、同語反復とは解釈しづらい。「ないものがないのは当たり前だ」というような文例を考えてはみたが、この場合の「が」は入れ子構造の文で「は」が重複するのを避けるために用いられる*1ものだ。いわば、ここでの「が」は「は」の代用であるからこのような特殊例を抜きにするならば、「ないものがない」は「ないものはない」のような多義性を持たないと言えるのではないだろうか。
そうすると、「ないものはない」の多義性は「ない」の多義性に由来するのではなくて、「は」の多義性に由来するのだと考えるほうが正しいような気がしてくる。ただ、そうすると本文で挙げた「食えないものは食えない」が多義的でない理由をどう説明すればいいのだろうか?
うーむ。
うーむ。
うーむ。
よくわからない。

*1:たとえば「日本野鳥の会は高尾山トンネル建設計画に反対した」を「……ということをシートン氏は知らなかったのでとんちんかんなことを書いてしまった」と組み合わせたときに「日本野鳥の会高尾山トンネル建設計画に反対したということをシートン氏は知らなかったのでとんちんかんなことを書いてしまった」というふうに、元の文の「は」が「が」に置き換えられることがある。