《舞台探訪》と《聖地巡礼》の区別の一歩手前

研究論文 「アニメ《舞台探訪》成立史――いわゆる《聖地巡礼》の起源について」 を発表しました - 博物士を読んで興味を惹かれ、論文の本文【PDF】も読んでみたのだけど、ちょうどこれから核心に入るというところで、

本稿では,あえて《舞台探訪》と《聖地巡礼》とを区別しなかった。データベース消費(63)の広まりによって後者が乖離していくのは『らき☆すた』(64)以降の現象だからである。両者の関係については別稿にて論じたい。

と締めくくられていて、鰻屋の前で蒲焼の匂いだけ嗅がされたような気分になった。とはいえ、この論文は「前置き」だと断られているのだから、その断り書きを読み飛ばして勝手に期待したほうが悪いと言えるかもしれない。

ただ,このたび発表したのは元々の原稿のうち一部を切り出して加筆したものでして,全体の中では前置きに当たる部分です(それだけで約1万8千字,A4換算10頁になってしまいましたけれど)。

今回の発表部分にも少しだけ述べておりますが,私が投げかけたいのは「舞台探訪のことを聖地巡礼って言うな!」ということです。これまでにも「アニメ聖地巡礼」についての先行研究は幾つか出されていますが,私が思うに,用語の定義がきちんとなされていないために数多くの論者が根本的なところで過誤に至っているように見受けられます。すなわち,《聖地》とか《巡礼》といった言葉につられて過度に「おたく」の特性を導いてしまっているのではないか,と。アニメを見て背景に描かれた場所へ行くことと,映画のロケ地を見に行くこと――両者を区別することに,どのような哲学的意味がありますか?

一段落だけ引用すれば足りるのに、あえてその次の段落まで続けて引用したのは、そこに「哲学的意味」というフレーズが使われているからだ。このフレーズから、未だ発表されていない草稿においては単に「おたく」の行動を現象として論じているのではなくて、フィクションの哲学*1を基礎とした考察が展開されているのではないかという期待が膨らむ。
それはともかく、いわゆる「聖地巡礼」に近年大きく寄与している京都アニメーションが先ごろTVアニメ「氷菓」の製作を発表したところであり、また「聖地巡礼」に乗り出すおたくが続出するのではないかという予感がするのだが、今のところはタイトルとスタッフの一部が発表されただけで、いったい原作をどこまで消化するのかすら不明であるので軽々しく思いつきを言うべきではないと思いつつ、どうせなら『氷菓』だけというケチくさいことを言わずに、『愚者のエンドロール』と『クドリャフカの順番』もアニメ化すると見せかけておいて、『クドリャフカの順番』のかわりに『さよなら妖精』をアニメ化して意表を衝いてほしいものだと思っているのだけど、こんな意表の衝き方に哲学的意味はありますか?

*1:フィクションの哲学については、それをそのままタイトルに掲げた『フィクションの哲学』が詳しい。