道徳と法の腐れ縁

このたびの「生活保護の不正受給」(?)騒動が起こるまで、河本準一という人物のことを知らなかった。ついさっき、「河本」は「かわもと」なのか「こうもと」なのか気になってWikipediaで調べたほどだ。お笑いコンビ次長課長の一員だということだが、そう言われてみればかすかに記憶にあるなぁ、という程度。
そういうわけなので、全然知らない人の縁者が生活保護を受けていたのが不正かどうかなどということにも関心がなく、関連する報道をあまり真面目に読んでいなかったのだけど、その間にだんだん話が大きくなってきたので、ちょっとは追いかけてみようかと思ったところで見かけたのが次の記事だ。

これはよくまとまっていて大変参考になった。なるほどなぁ、と感心もした。事実関係の誤りや新事実の発見などが出てくれば話はまた違ってくるが、それ以外では基本的にこの記事の筆者の考え方に賛成する。
以下、「基本的に賛成」という前提のもとで気になったことを書いてみる。
まず冒頭部分で、次のように書かれている*1

河本準一氏の母親・姉・叔母二人の「生活保護の不正受給」問題が騒がしいが、わたしは河本氏叩きにはまったく賛同できない。不正はなかったにも関わらず、河本氏に謝罪を強要した社会を、わたしは怖いと思う。

ここで「不正」と書かれているのはもちろん「生活保護の不正受給」のことであり、生活保護法に基づく法制度に沿っているかどうかという観点から「不正」という語が用いられている。従って、「違法」「不法」に近い*2。これがより明らかに述べられているのが次の段落だ。

「生活費を援助する能力がある」と「実際にいくら援助した」は別の問題である。生活費の援助能力があったとしても、実際にする(あるいは受ける)か否か、いくら援助するかはまた別問題である。ちなみに、「能力があるなら養え」というのは道徳的・倫理的発言であって、「不正」という言葉が使われるような法的な問題ではない。さらに、わたしはその道徳・倫理には一切与しない。

「不正」という語のこのような使い方が間違いだ、という気は全くない。ただ、「不正」とは読んで字のごとく「正しくない」ということであり正義の観念と結びついていること、そして法的な問題について「不正」という言葉が用いられる場合であっても道徳的な色合いを残していることは指摘しておきたい。たとえば、一方通行道路を逆走するのは道路交通法違反だが、ふつう「不正」とは言わない。
さて、まずは用語法に関する指摘から始めたが、もちろん話は言葉のレベルにとどまらない。

「道義的責任」は法や制度とは別問題であるし、河本氏の家族の問題に「道義的責任」を突きつけるのは、いくら芸能人だからといっても許されることではない。
少なくとも、「河本氏には親を養う能力ができたのに、これだけしか援助しなかった」という批判をするとすれば、それは「不正の追及」ではなく、「道義的な責任の追及」であるということを自覚すべきである。そして「河本は親不孝だから嫌いだ」と主張するならまだ筋が通っていると思うが(私は賛同しないものの)、親不孝を「不正」と主張するのは筋が通らない。

ここでは、道徳と法を切り離して問題を整理するという考え方がかなり強く打ち出されている。確かに道徳と法は同一ではないので、両者を混同して論じると話がおかしくなることが多い。その意味では筆者の考えを支持するものの、両者は全く別問題なのかといえば、必ずしもそうではないと考える。
ここから先は「河本準一氏叩きで見失われる本当の問題」から少し離れた話題となる。
上で触れた一方通行道路の例のように法制度の中には道徳とほとんど関係のないものも多いが、すべての法制度が道徳と無縁だというわけではない。法はかなりの程度において道徳に根拠をおいている。このことについて、次に相反する2つの見地を素描することにしよう。
一方に、法は道徳を最大限に反映させるべきだという考え方の人がいる。道徳は人が正しく生きるための素晴らしい知恵だ、という道徳への基本的な信頼がその考え方の前提にはある。本来なら道徳はそのまま個人の内面に浸透し、行動の原則となるのが理想だが、実際にはそうはなっていない。そして、道徳それ自体には人を従わせる強制力はない。ならば、道徳を可能な限り法の中にとれ入れて、罰則・制裁などの手法を用いて道徳的な社会を実現していくのが望ましい。この考え方によれば、道徳は立法の段階でも法解釈の段階でも大いに関連づけて論じられるべきだということになる。
他方に、法を道徳から切り離したいと考える人もいる。たとえば、自由主義者ならこう考える。人を束縛するさまざまなくびきから解放されて、自由にのびのびと、自分の意志でしたいことをしたいようにできる社会が理想だと考えるなら、「ああしろ、こうしろ、それはするな」といちいち指図をする道徳や法は煩わしい。けれども、さすがにすべての社会的ルールがなくなってしまい無秩序になると自由を謳歌するどころではなくなってしまうから、ある程度の制約は甘受しなければならない。ならば、他者危害原理など最低限の制約*3を法に実装し、それだけに従うというのが望ましい。この考え方によれば、道徳が法の中に密導入されて人を縛るのは大変まずいことになる。
ここで述べた2つの見地はどちらもそれなりの説得力を持っているが、個人的にはどちらも支持したくない。とはいえ、「第3の道」のようなものを考え出せるほど頭がよくないので、さしあたり場当たり的で日和見的な立場をとることにしている。すなわち、「道徳と法の関係については、基本的に今の両者の腐れ縁を承認する。その上で実務上まずい事象が生じるなら、その不具合を解決するのに必要な限度内において両者の関係を再点検する」という立場*4だ。
生活保護については詳しく調べたことがないので、次に述べることはもしかしたら間違っているかもしれないし、ピントがずれているかもしれない。そのつもりで聞いてもらいたい……と前置きをしたうえで私見を述べるとするなら、生活保護については、現在、だんだん問題が大きくなっていると思われる。問題は主に次の2点。

  • 生活保護受給者が増えて財政的な負担が増している。また、今後も増加する見込みである。
  • 生活保護を受けられないかまたは十分ではないせいで困窮する人が増えている。また、今後も増加する見込みである。

上の問題を解決するために認定基準を厳格化したり水準を切り下げたりすれば下の問題が加速し、下の問題を解決するために認定基準をゆるめたり水準を上げたりすれば上の問題が加速する。よって両者は表裏一体の問題で、両方を解決することはできない……と考えたくなるのだが、ここに一つの「名案」*5がある。扶養義務の拡大だ。
現行の生活保護法の規定をみると、第10条で世帯単位の原則が定められているので同一世帯内での相互扶助が前提となっているのがわかるが、別世帯の親族の扶養義務については第4条と第5条で他法令に丸投げされていて明文規定がない。これを改め、同一世帯か否かによらず三親等とか四親等とか適当な範囲を決めて扶養義務を課せば、生活保護受給者はかなり減るだろう。または、血縁関係ではなく、向こう三軒両隣に扶養義務を課すという手もある。近所付き合いは大切ですね。おお、これはまさに「名案」だ!
で、扶養義務が課せられたにもかかわらず、義務の履行を怠った場合はどうするか? 罰金? 懲役? まあ、そこまでは行き過ぎだろう。まずは行政庁が義務履行を勧告し、さらに従わない場合はその旨を公表する、というような制度になるのではないか。
この「名案」が実行された暁に今回と同様の事件が生じたなら、親族を扶養しなかったことを公表され、社会的に非難され、謝罪会見を開く人も出てくるかもしれない。その時、「河本準一氏叩きで見失われる本当の問題」で述べられた懸念は何一つ解決していないにもかかわらず、その議論の大きな根拠である、「そこに法的な問題はない」という主張が成り立たなくなってしまう。
……というのは仮想の話なので、いま現にある制度に即して書かれた「河本準一氏叩きで見失われる本当の問題」に対する批判ではない。ただ、現在、さまざまな分野で、社会的制裁を期待した公表制度がどんどん作られている*6のは確かだ。この動きがこの先どういうふうに進んでいくのかは注視したほうがいいように思う。
「道徳と法の腐れ縁」の話をするはずがかなりずれてしまった。ごめんなさい。

追記

本文で「扶養義務の拡大」と書いたが、生活保護費:親族負担どこまで− 毎日jp(毎日新聞)を読むと「扶養義務の厳格化」のほうが適切だったようだ。

*1:以下、引用はすべて「本準一氏叩きで見失われる本当の問題」から。

*2:「違法」と「不法」の違いについてはここでは立ち入らない。「違法」と「不法」の違いは? | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所不法行為 と 違法行為 の違い:ディファレンスなどを参照。

*3:「他者危害原理のみ」という考え方ももちろんあり得る。

*4:この立場を「保守主義」と呼びたいのだが、たぶん世間一般には、上で述べた2つの見地のうち前者のほうを指すために使う言葉だと認知されているだろう。

*5:以下、「名案」はすべて括弧で括っているので、そういうふうに読んでください。

*6:たとえば、空家を壊せば空地がうまれる - 一本足の蛸で言及した空屋条例など。最近の例では、いわゆる「外国資本土地買収問題」を契機に作られた北海道水資源の保全に関する条例埼玉県水源地域保全条例など。近年の公表制度導入の動きは特に地方自治体の条例に見られる。